2010年4月19日月曜日

「拝啓、ダ・ポンテ様」映画 『ドン・ジョヴァンニ』を観て思うこと。  “ネタバレ注意”

拝啓、ダ・ポンテ様。

たいへん、お恥ずかしいことなのですが、
小生、先週の日曜日に、ポンテ先生が登場される映画『ドン・ジョヴァンニ』を拝見して、先生がモーツァルトとの共同作業で、1786年『フィガロの結婚』(原作ボーマルシェ)、1787年『ドン・ジョヴァンニ』(台本にはジャコモ・カサノヴァも協力した)、1790年『コジ・ファン・トゥッテ』という3作品のオペラを創られたことを知りました。

聞くところによりますと、この頃のモーツァルトは、ウィーンの宮廷に職を見つけることができずに失望をかみしめる日々を送っていた、とのことです。なんとしてもイタリアオペラで成功しなければならない。それには宮廷一の台本作家ダ・ポンテの協力がどうしても必要だった。しかし先生はあれこれ理由を見つけては台本の制作を先延ばしにしていたそうですね。

モーツァルトは父親にあてた手紙の中で当時の様子を次のように語っています。

「ここウィーンにはダ・ポンテ師という詩人がいます。いま劇場用に台本を書き換える仕事で大忙しですが、それが終わったら、僕のためにも台本を書いてくれると言っています。しかし彼が約束を守ってくれるのか、あるいは約束を守る気があるのかどうかはわかりません。イタリア人というのは皆そうしたものだということを、お父さんだってご存知でしょう。面と向かうととても愛想がいいのです。いや、もうよしましょう。そんなことははじめから判っていたことです。それに彼とサリエリとのあいだで話がついているとすれば、ぼくのために作品を書くはずなどないのですから。でも、僕はなんとしてでもイタリア語のオペラで自分の腕前を披露したいのです」

小生が調べましたところ、
先生はヴェネト州のチェネダでユダヤ人の家系に生まれた。元の名前はエマヌエーレ・コネリアーノであった。1763年に一家はキリスト教に改宗して、洗礼を行った司教ロレンツォ・ダ・ポンテの姓を名乗り、エマヌエーレの名前をロレンツォとした。先生はのちに聖職に就き、ヴェネツィアで暮らした。しかし、放蕩生活を送ったために1779年にヴェネツィアから追放された。

1781年の終りにヴィーンに行った。ウィーンに移住した先生は、アントニオ・サリエリの口利きによって台本作家としての能力を認められ、ヨーゼフ2世の宮廷で詩人としての職を得た。この頃、皇帝ヨーゼフⅡは、ヴィーンにおけるドイツ・オペラの推進を断念し、イタリア・オペラをもう一度盛り返そうにさせようとしていた時だったため、先生は時を得て皇帝から大いに気に入られ、重宝され、宮廷劇場の詩人として起用されるに至った(1783年)。先生は語学や詩作能力に優れ、典型的な宮廷劇場詩人となった。宮廷での主な仕事は、フランス語の台本をイタリア語に翻訳することと、ヴィーンの作曲家のために新作の台本を書くことであった。ヴィーンでの最初の台本は、宮廷楽長サリエリ(1750-1825)のためオペラ「1日だけの金持ち」であったが、これは失敗作となる。先生はサリエリの音楽が悪いと主張しています。1786年のマーティン・イ・ソレル(1754-1806)のためのオペラ「ぶっきらぼうだが根は善良」で大成功をおさめ、この年には6つの台本を生み出しています。

先生は、何年もの間、オペラのイタリア語台本を作成する仕事を続け、さまざまな音楽家に膨大な数の台本を提供して成功を収めました。モーツァルトとの共同作業で代表作となる3つのオペラを作ったのは次の年です。1786年『フィガロの結婚』(原作ボーマルシェ)、1787年『ドン・ジョヴァンニ』(台本にはジャコモ・カサノヴァも協力した)、1790年『コジ・ファン・トゥッテ』と・・・。

さて、先生が始めてモーツァルトに出会ったのは、1783年、ウィーンの宮廷でオペラの台本作家として活躍しているときでした。二人を引き合わせたのは、オッフェンバッハの銀行家ウエッツラー男爵だったといわれています。
ウィーンに来て二年、イタリアオペラを作るためにむなしい努力を続けていた二十七歳の若きモーツァルトは、オーストリアでもっとも有名な台本作家である先生に会うのをどれほど心待ちにしていたことでしょう。
(先生が)出会った当初、モーツァルトは先生にとって取るに足らない存在だったのでしょうね。モーツァルトがウィーンに来てはじめて書いたオペラ『後宮からの逃走』が、ヨーセフ二世から芳しい評価を得られなかったということが大きく影響していたのかもしれません。ヨーセフ皇帝は音楽に造詣があり、演奏に関しても秀でた才能を発揮したといわれているが、あたらしいモーツァルトの音楽をすぐに理解することはできなかったのです。

結局お二人が最初のオペラ『フィガロの結婚』に着手したのは、出会ってから2年以上もたった1785年の秋のことでした。当時は、下記のようなやり取りがあったのでしょうね。
「わたしの書く台本に曲をつける気持ちがおありですか」と先生がモーツァルトにたずねる。
「もちろんです、ぜひともやらせてください」即座に答えたものの、モーツァルトはすこしばかり不安げに付け加えた。「ただ、わたしが今考えている芝居をオペラにすることが許されるかどうか……」
「それをなんとかするのが私の仕事ですよ」と。

映画の中に、先生が、『ドン・ジョヴァンニ』の製作をモーツァルトに持ちかけるシーンがありますが、あの時の先生は目を輝かせ、モーツァルトを口説きます。まるで、男娼を買い入れる様に・・・。
そして、『罰せられた放蕩者・ドン・ジョヴァンニ』は、まさに、お二人のこれまでの放蕩振りを踏襲するかのようでありました。作中に、残されたレポレッロがエルヴィーラに「旦那に泣かされたのはあんただけじゃないよ。イタリアでは640人、ドイツでは231人、しかしここスペインでは何と1003人だ。」と有名な「恋人のカタログの歌」を歌って慰められるシーンがありますが、これは先生ご自身の体験に基づいているのではありませんか。先生は、女好きだったのでしょう。少なくとも、この『ドン・ジョヴァンニ』を創作した頃は・・・。この映画は、その時の様子を見事に描いております。同時に、その時の先生の恋愛遍歴を巡る心の葛藤をも見事に描いておられます。おそらく先生は判っていらっしゃったのでしょう。先生が複数の女性に好意を覚えれば、それぞれの女性達はいがみ合い、葛藤し、先生もまたこうした葛藤に巻き込まれ不愉快な思いをすることを・・・。しかし、「判っちゃいるが辞められない!」とは、まさにこの頃の先生の為にあるような言葉。

『ドン・ジョヴァンニ』の最初の場面で、ドン・ジョヴァンニの従者レポレッロは「こんな主人に仕える仕事はいやだ。」とぼやいているシーンがありますが、確かに、浮気を繰り返し放蕩と続けるドン・ジョヴァンニに従うことは苦痛でしたでしょうね。先生は、自分の懺悔を、ドン・ジョヴァンニに語らせていただのですね。
しかし、先生は、同じような天才型・放蕩者:モーツァルトと出会うことで、自らの「放蕩振り」を芸術の域にまで高めてしまうことに成功しました。映画の中で、オペラ 『ドン・ジョヴァンニ』を創作されているお二人は輝いていました。「理解しえる友を得た」という思いが、先生の中に沸き起こったのでしょうね。お二人は、周りの方々をどれほど苦しめたか判りません。

けれども、小生は、先生の「放蕩」や「女性遍歴」を理解します。もちろん、小生が先生の真似をしようとするものではありません。倫理的に許されない行為こそが、崇高な芸術を生み出すという「神様の悪戯」は、本当に皮肉なものです。しかし、清廉潔白な生き方からは、人々を感動させる作品は産み出ないのかもしれません。それと、あれだけ「放蕩」を続ければ、実は、「崇高な境地」というのも誰よりも理解できるのかもしれませんね。
『ドン・ジョヴァンニ』、最後は復讐にやってきた石像がジョヴァンニの手を捕まえ、「悔い改めよ、生き方を変えろ」と迫る。初めて恐怖を感じながらも執拗に拒否するドン・ジョヴァンニ。ついに「もう時間が無い」といって石像が消えると地獄の戸が開き、ジョヴァンニを引きずり込む。そして、アンナは悪人であるドン・ジョバンニのために1年の喪に服すといい、オッターヴィオも従う。エルヴィーラは愛するドンジョバンニのために修道院で余生を送るという。マゼットとツェルリーナは家にもどってようやく落ち着いて新婚生活を始めようとする。レポレッロはもっといい主人を見つけようという。一同、悪事をなすもののなれの果てはこうだと歌い、幕となります。

でも、人々は長らく先生とモーツァルトの創られたこのオペラを愛し続けています。なぜなのでしょう。もし、スクリーンから先生が飛び出して来られるのなら、是非ともじっくり酒でも飲みながら、その辺りの事を伺いたいのです。
映画のなかのダ・ポンテ先生、本当にあなたは偉大でありました。機会があれば、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』を一緒に拝見したいものです。

以上、「放蕩」に徹し切れないものより。

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