2010年8月23日月曜日

スパイ映画を語る。②映画『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』 を鑑賞して・・・。

 スパイ映画・『007』も好いけれど、実話をもとに製作された「スパイ映画」は、アクションシーンこそありませんが、フィクションの世界とは異なる面白さを我々に提供してくれるものです。さて、「スパイ映画」を素材にした「酒の肴」・二品目です。

先ごろ、アメリカでロシアのスパイが大量摘発され、ロシアが押さえていた旧西側スパイと交換されるという事件が起きました。まるで古いサスペンス映画を倉庫から引っ張り出して見せられているようで、まあ驚きで文字通り世界の注目を集めました。摘発されたスパイたちが、いかなる「情念」のもとに、どんな「獲物」と「成果」を上げていたのか、まだよくわからないそうです。ただ、市民生活にとけ込んだ暮らしぶりや経歴を見ると、ヒットエンドランのような短期の工作員ではないのでありましょう。

 昨今は、今回紹介する「フェアウェル」の時代のような、世界大戦につながりかねないような緊迫感はありませんが、家庭人を装いながら(いや、実際に家庭人だったのでしょう。)、任務に忠実であろうとした「21世紀のロシアのスパイたち」の心の風景は、どんなものだったのでしょうか。美人がいたからというわけではなく、これは将来必ず味のある映画になると小生は思うのです。特に、これから紹介する映画『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』を鑑賞した後には・・・。

「真実」であるが故に、迫り来るものを感じます。「真実」であるが故に、主人公となるスパイたちの人間味に酔いしれ、彼らに哀愁を感じるのです。そして、「世界外交陰謀の恐ろしさ」も味わうことになります。

(映画『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』)

 20世紀最大のスパイ事件のひとつと言われる「フェアウェル事件」、それは1980年代初頭ブレジネフ政権下のソ連で起りました。KGBのグリゴリエフ大佐(実名:ウラジミール・ヴェトロフ)が、自らが所属するKGBの諜報活動に関する極秘情報を、当時、東西冷戦時代の敵陣営であるフランスに受け渡したのです。しかもこの超大物スパイが提供した莫大な資料には、ソ連が長年調べ上げたアメリカの軍事機密や西側諸国に潜むソ連側のスパイリストなどが含まれ、まさに世界のパワー・バランスを一変させかねないほどの破壊力を秘めたトップシークレットでありました。だから、一般人は、この事件についてそれほど知りえないのです。グリゴリエフのコードネーム「フェアウェル(いざ、さらば)」を冠して「フェアウェル事件」と呼ばれるこの史上空前のスパイ事件は、実際に当時のソ連を震撼させ、アフガニスタン侵攻の失敗とともに、のちの共産主義体制崩壊の大きな切っ掛けになりました。

 なぜ、スパイ・「フェアウェル」は祖国を裏切るという死と背中合わせのリスクを冒したのでしょう。「世界を変えてみせる。祖国・ソ連のために、そして現在の自分を“国家の犬”と批判する次世代を生きる息子のために・・・」という思いが、彼を駆り立てたのです。

事実は小説よりも奇なりであります。今回紹介する作品・フランス映画『フェアウェル/さらば、哀しみのスパイ』は、そんな時、東西冷戦構造崩壊につながったともいわれる、実際の大型スパイ事件をドラマにした作品です。ジェームズ・ボンドのような秘密工作員が大活躍する? ノーであります。祖国と家族を愛し、よれよれに疲れ、しかし、一筋の希望を捨てなかった中年男・KGBのグリゴリエフ大佐(実名:ウラジミール・ヴェトロフ)が世界を動かしたのです。

 舞台は1980年代初め、ブレジネフ体制末期のソ連。

 すべてに行き詰まった祖国に絶望し、再生のためには体制を崩壊させ、新たな革命を経るしかない。こう決意したKGB(ソ連国家保安委員会)のグリゴリエフ大佐は、フランス人技師ピエールを通じ、機密情報を西へ流し始める。まず、西側のトップシークレットがソ連に漏れているという事実と証拠。そして、ついには西側で活動しているソ連のスパイたちの所在も知らせます。

 米国のホワイトハウスやCIAのトップは、ソ連への情報漏えいの実態を知ってがく然とする一方、大佐の情報でスパイを大量摘発し、ソ連の海外諜報(ちょうほう)活動網を壊滅状況に追い込みます。しかし、国家や国際パワーゲームの当事者である為政者たちには、自分たちが利用するスパイの個人的な思いなどどうでもよく、まして彼らの友情や家族愛など想像さえしなかったでありましょう。しかし、この作品は彼らの友情や家族愛などを見事に描いたのであります。

初めは素っ気なかったが、次第に友情を深めるグリゴリエフ大佐とピエールが、この映画の主人公です。この大佐は実名ウラジミール・ヴェトロフ、事件当初53歳でした。スパイ史であるJ・T・リチェルソン著「トップシークレット」(太陽出版)によると、ヴェトロフはKGBで科学技術のスパイを担当する第1総局のT局幹部となっております。60年代にフランスのパリに駐在した経歴があり、その時知り合った実業家を通じ、手紙でフランスの防諜機関DSTに接触、情報提供を申し出ます。DSTはヴェトロフに英語で「フェアウェル(いざ、さらば)」という暗号名を与えます。

 グリゴリエフ大佐から提供される情報によって、科学や技術に関しソ連が西側から収集していた膨大な情報が分かり、設計書や解析がおびただしく開示されていきます。西側で活動する「ラインX」という大量のKGB要員のリストも明らかになります。勝負あった、である。

 「フェアウェル」の活動は長くは続きませんでしたが、その効果は決定的だったのです。もちろん、グリゴリエフ大佐彼の命運は波乱万丈です。詳細は、どうぞ劇場で・・・。

映画では、グリゴリエフ(ヴェトロフ)大佐と、情報受け取り役のピエールの次第に深まる友情と、双方の家庭内の亀裂、愛憎があざなえる縄のように描かれます。

 大佐は1955年に大学を出た、理工系であります。そのころ、ソ連は宇宙ロケット開発競争で米国をリードし、スプートニクの打ち上げ成功が世界を驚かせました。有人衛星もソ連が初めて成功させました。そのころを誇らしげに大佐が回想するシーンがあります。印象深いシーンです。ソ連にも栄光の時があったのです。 だが、80年代。その栄光は薄れ、情報を盗むことでしか西側との科学競争についていけない国の実態に大佐は絶望します。

一人息子は遠い西側の自由にあこがれ、手に入れたロックバンド「クイーン」の音楽テープに夢中となります。この子の時代には新しい国に、と大佐はひそかに願います。発覚、破局の時がくる。大佐から情報を受け取っていたフランス技師・ピエールは妻子を車に乗せて雪の道を必死に疾走し、国外脱出を図ります。そして、仰天すべき事実を知ることになります。そこにはむき出しの国家のエゴ、裏にうごめくスパイの素顔があったのです。

「世界を変えてみせる。祖国・ソ連のために、そして現在の自分を“国家の犬”と批判する次世代を生きる息子のために・・・」という信念が、ひとりのスパイを創り上げたのです。しかし、「ソ連のため・・・」を世に問うには時期尚早でありました。なにしろ、ブレジネフ政権下です。真実を知るまでは、大佐の家族は、「大佐は国家の犬」、という認識さえ持っていました。「国家の犬」が「ソ連を変える」という信念を持ってスパイ行為をしていたのですから、事実は小説よりも奇なりであります。

スパイ映画でありますが、それはそれは上質なハードボイルド作品であります。どうぞ、グリゴリエフ(ヴェトロフ)大佐とピエールの友情に酔いしれて下さい。そして、先ごろ、アメリカで摘発された「ロシアのスパイ」、彼ら彼女らの思いを想像してみて下さい。上質なハードボイルドが創造できませんか・・・・。

ジェームズ・ボンドのような秘密工作員が大活躍する? ノーであります。

でも、「スパイ映画」、面白いですぞぉ~。

スパイ映画を語る。①映画『敵こそ、我が友』 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~

 スパイ映画『007』も好いけれど、実話をもとに製作された「スパイ映画」は、アクションシーンこそありませんが、フィクションの世界とは異なる面白さを我々に提供してくれるものです。今回は、そうした実話に基づいて製作されたスパイ映画を2作品、2回に分けてご紹介しましょう。こうしたスパイ映画は「真実」であるが故に、迫り来るものを感じます。「真実」であるが故に、主人公となるスパイたちの人間味に酔いしれ、彼らに哀愁を感じるのです。そして、「世界外交陰謀の恐ろしさ」も味わうことになります。

(映画『敵こそ、我が友』 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~)

『クラウス・バルビー』という人物を知っていますか? 小生は、この人物の存在を、映画『敵こそ、我が友』を通して初めて知りました。彼は、1935年22歳でナチス・ドイツ親衛隊に所属してから、1987年フランスでの裁判で“終身刑(フランスは死刑がないので)”を宣告されるまでに、残虐で欺瞞に満ちた人生を送ります。本作品は、彼の人生を、「オーラル・バイオグラフィー」(いろんな人が彼について話すことで、その人物を浮かびあがらせる特殊な手法)の手法で描いた、ドキュメンタリー作品です。全編、彼に関わった人々のインタビュー(彼・本人のインタビューも含む)と、裁判映像で構成されています。

彼は、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州で生まれ、1925年に、父親の転勤に伴いトリーアへと移動しました。1933年には、学生の身分ながら当時ドイツで勃興してきたナチス党のために働き、1935年には親衛隊情報部に入ります。 1939年9月に第2次世界大戦が勃発し、1942年にはドイツ占領下のオランダに赴任し、その後、フィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下のフランスのディジョン、リヨンに赴任します。1945年5月の終戦までの間に、ヴィシー政権下のリヨン市の治安責任者として対独抵抗運動を鎮圧する任務に就いており、8千人以上を強制移送により死に追いやり、4千人以上の殺害に関与し、1万5千人以上のレジスタンス運動の参加者に拷間を加えた責任者とされています。しかし実際には、この数字をはるかに上回る数のレジスタンスのメンバーやユダヤ人を虐殺した責任者と考えられており、また、孤児院に収容されていた44人の子供の虐殺に対する責任者とも言われたほか、レジスタンス指導者だったジャン・ムーランを逮捕し死に追いやったとのちに供述しています。フランス人は、彼に『リヨンの虐殺者』という異名を与えたそうです。

大戦後、本来ならばすぐにでもニュルンベルク裁判などの連合軍による裁判で裁かれてもおかしくなかったのですが、アメリカ軍は、フランス政府が戦犯として追求するバルビーを、当時ヨーロッパで始まりつつあった冷戦下における対ソ及びドイツ共産党員に対する情報網の設置に役立つ人物と判断し、1947年からアメリカ陸軍情報部隊(CIC)の工作員として利用します。

やがてフランスの諜報機関は、アメリカがバルビーをかくまっているという事実を嗅ぎつけ、アメリカにバルビーの引き渡しを要求しはじめました。しかしフランス政府の度重なるバルビー引き渡し要求にもかかわらず、バルビーの利用価値を高く評価していたアメリカは引き渡しを拒否し続けます。フランス政府により高まる引き渡し要求に、アメリカはバルビーを国外に逃すことを画策し、バルビーはCICが用意した「クラウス・アルトマン(Klaus Altmann)」名義のパスポートと必要書類一式を受けとり、1950年12月に家族と共に反共産主義のバチカンの庇護のもとに南アメリカに旅立ち、ファン・ペロン政権下のアルゼンチンを経て、1951年4月23日に家族と共にボリビアのラパスに到着します。フランスに彼の素性を察知されると、アメリカは『ラットライン』(ねずみの抜け道)と呼ばれた、逃走ルートを用意しました。しかも、この策動には、バチカン右派の神父たちが深く関わっていました。彼に限らず、バチカン右派の聖職者によって、ナチス残党の多くは海を渡ったようです。

1951年、彼は偽名『クラウス・アルトマン』を使い、ボリビアに潜入します。当時のボリビアは、冷戦下においてアメリカが支援する反共的な軍事政権の支配下にあり、戦前からのドイツ系移民の影響力も強かったこともあり、チリなど周辺国に住む元ナチス党員らと連絡を取り、同時に同国の軍事政権との関係を構築していました。そうしたなか、彼は、1957年10月7日にはボリビア国籍を取得することに成功し、この後数十年間にわたり、ボリビアの軍事政権とアメリカの事実上の庇護のもとに、バルビーはドイツ系ボリビア人の「クラウス・アルトマン」として、1964年から政権を握ったレネ・バリエントス・オルトゥーニョ将軍をはじめとする、ボリビアの軍事政権の歴代指導者の治安対策アドバイザーを務めることとなります。ボリビアの軍事政権のアドバイザーとして、バルビーは同国内で活動していた共産主義組織や反政府ゲリラ組織だけでなく、労働組合などの左翼シンパと目される組織に至るまで目を光らせ、後には1967年10月に同国の軍事政権とCIAの協力の下で行われたチェ・ゲバラの身柄確保と処刑にも関与したと報じられました。また、元ナチス党員とともにナチス再興のための組織を設立したほか、イタリアの極右政党の「イタリア社会運動(MSI)」幹部で元フリーメイソンの「ロッジP2」代表のリーチオ・ジェッリとも深い関係にあった、とされます。さらにオーストリアのシュタイア・プフなどの大手軍需企業との間の武器取引会社や海運会社を設立させて大金持ちとなっただけでなく、海運会社の役員の「クラウス・アルトマン」を名乗り、自らを戦争犯罪人ということで指名手配させていたフランスにも渡航していました。

しかし1972年に、ペルーのリマ市で発生した殺人事件の被害者と容疑者に関係のあったバルビーはリマ市警に眼をつけられます。そしてこの実業家が、実はフランスの破毀院によって死刑の判決がでている戦争犯罪人であることをつきとめられます。事件後、バルビーは公然と姿を現わし、自分の正体を認め、ボリビアのテレビに出演して、ナチス親衛隊員の過去を礼讃しました。世界のマスコミが騒然となりボリビアに殺到しました。バルビーはマスコミに『回想録』を売りつけ、戦後、西ドイツの「ゲーレン機関」に関係していたことを暴露して、世界を驚かせます。またバルビーは「戦争犯罪と考えられるいかなる行為にも関わっていない」と強く主張します。

その後もバルビーは、1980年6月に政権を奪取した民主人民連合(UDP)による左派政権に対して、同年7月17日ルイス・ガルシア・メサ・テハダ将軍が起こした軍事クーデターにも関与するなど、ボリビアの軍事政権との関係を続けました。なお、ボリビアの歴代軍事政権は、フランス政府によるバルビーの引き渡しを、バルビーが「ボリビア人」であることを根拠に公然と拒否し続けました。しかしガルシア政権は、バルビーが深く関与した左翼活動家への弾圧などにより国民からの反発を受けただけでなく、コカインの生産および輸出への深い関与が証明されたことから、後見人的立場であったアメリカの支持を失い、翌年に退陣することとなりました。

1982年、ガルシアの後を継いだボリビアの軍事政権が倒れ社会主義政権にとってかわられるとともに、バルビーをフランスに引き渡す声が高まります。翌1983年に、70歳になったバルビーは、ボリビアと同じく社会主義(フランソワ・ミッテラン)政権下にあったフランスに引き渡されました。1984年からリヨンの法廷で始まった裁判は世界中の注目を浴び、裁判においてバルビーは、「自分はフランスがアルジェリアでやったのと同じことをしたにすぎない」と主張し物議をかもした他、フランス国内の右派からは、「ヴィシー政権下で叙勲を受けるなど評価を高めたミッテラン大統領の罪状から、目をそらさせるための裁判である。」との意見もありました。しかし最終的にバルビーは終身禁固刑を宣告され、直ちにフランス国内の刑務所に収監されたのです。その後1991年9月に刑務所内で病死しました。

作中の様々なインタビューを通して、スパイ小説をも凌駕する、『真実』、が明かになります。

この作品は、「現在でも、あらゆる国家・政府は得体の知れない組織や個人と関わって、外交諜略・外交成果を上げている」という事実を、我々の前に明かにします。『外交とは、何のために存在するのか』、『外交成果とは何か』ということを、改めて我々に問う作品でした。

嘗て、『リヨンの虐殺者』という異名を与えられたバルビーが、アメリカやカトリックの総本山・バチカンからその利用価値を見出されたという「歴史事実」を私達は、一体どのように評価すればよいのでしょうか。自国の価値観に敵対するものを徹底弾圧するためには、巧みなスパイ戦術に長けたバルビーは非常に有効でありました。そして、この「利用価値あり」とされた一人のスパイを、「ラットライン」やバチカンのバックアップで生き長らえさせることを可能にしたのです。

唯、何よりも、これは事実・・・、この一点に、小生は先ず圧倒されてしまうのです。いやはやなんともです。

「スパイ」を「酒の肴」に、次回、もう一つお付き合い下さい。

では、また・・・。

2010年8月11日水曜日

 『夢の中の夢の中の夢』で繰り広げられるアクションサスペンス、もう最高!(映画 『インセプション』に乾杯!)

 「バッドマン」を変革した、あのクリスファー・ノーランが、やってくれました。誰も思いつかないであろうストーリー展開を秘めたサイコサスペンス、その名も『INCEPTION(“植えつける”と言う意味)』。

昨今は、そのほとんどが「原作アリ」というなかで、この作品『インセプション』はノーランの完全オリジナル脚本です。この物語、要するに大企業のトップ・サイトー(渡辺謙、演ずる)が、ライバル会社の社長息子を陥れてライバル会社を解体させる、というごくごく平凡なストーリーです。

では、何が「やってくれました、クリストファー・ノーラン!」なのでしょうか?それは、直ちに映画館へ行ってこの作品をご覧になれば判ります。それでは皆さん、映画館でお会いしましょう・・・、と言いたいところですが、それでは何だか判らないと思いますので、以下、熱く語りましょう。

まず、どこが「誰も思いつかない奇想天外なストーリー」なのでしょうか?それは、「サイトーがライバル会社の社長息子を陥れる手段」が斬新なのです。陥れるために用いられる手段は、なんと「夢」です。

しかも、「夢」は、陥れられるロバート(ライバル会社の社長息子)と、陥れる産業スパイ集団(ディカプリオ演ずるコブを中心とする“栄光のビッグ・ファイブ”)達とで共有されなければならない。普通、「夢」を用いて産業スパイ活動を行うというのは、「エクストラクション(作品表題のインセプションの対義語)」と解釈され、これは他人の頭の中に侵入して、カタチになる前のアイディアを盗むことなのです。しかし、今回の場合、用いられる手法は「インセプション」。それは、陥れるターゲットの意識下に「あるアイディア(この場合、会社が破滅するアイディア)」を植えつける行為なのです。

大物実業家・サイトーが雇い入れた、「産業スパイ集団」のメンバーと役割は以下の通りです。

1. 抜き取り屋のチームリーダー・コブ。

2. 複数の人間が夢の異なる状態をシェアできる薬を調合する調合師・ユスフ。

3. 夢の世界に侵入し、様々な人物に姿を変えてターゲットを翻弄する偽造師・イームス。

4. ターゲットが現実だと騙される世界を頭の中に創る設計士・アリアドネ(チーム唯一の女性)。

5. コブの心強い相棒。綿密に任務を進め、平静なポイントマン・アーサー。

具体的にストーリーを紹介しましょう。〈ネタバレ、注意!〉

主人公のドム・コブは、人の夢(潜在意識)に入り込むことでアイディアを“盗み取る”特殊な企業スパイ。 そんな彼に、強大な権力を持つ大企業のトップのサイトーが仕事を依頼してきた。依頼内容はライバル会社の解体と、会社解体を社長の息子ロバートにさせるようアイディアを“植えつける(インセプション)”ことだった。極めて困難かつ危険な内容に一度は断るものの、妻殺害の容疑をかけられ子供に会えずにいるコブは、犯罪歴の抹消を条件に仕事を引き受けた。

古くからコブと共に仕事をしてきた相棒のアーサー、夢の世界を構築する「設計士」のアリアドネ、他人になりすましターゲットの思考を誘導する「偽装師」のイームス、夢の世界を安定させる鎮静剤を作る「調合師」のユスフをメンバーに加えた6人(依頼人のサイトーも含む)で作戦を決行。首尾よくロバートの夢の中に潜入したコブ達だったが、直後に手練の兵士たちによって襲撃を受けてしまう。これはロバートが企業スパイに備えて潜在意識の防護訓練を受けており、護衛部隊を夢の中に投影させていた為であった。インセプション成功の為に更に深い階層の夢へと侵入していくコブたち。次々と襲い来るロバートの護衛部隊に加え、コブの罪悪感から生み出されたモル(=コブの妻)までもが妨害を始めた。さらに曖昧になる夢と現実の狭間、迫り来るタイムリミット、果たしてインセプションは成功するのか・・・、となるのです。

しかも、数学的にストーリーを面白くしているのは、この「夢」が「3層構造」になっているということ。

少々解説しますと、以下のようになります。しっかり話しに付いて来て下さい。

まず、「夢の世界」は、現実の世界より時間の進み方が速い、と言うことを理解して下さい。ですから、目覚める前に夢の世界から出るには、自分を殺すか、外部から衝撃を与えてもらう(=「キック」と言います。)しか方法は無いのです。ですから、「夢の階層」を次の階層へと進む時は、チームの誰かが、「(現在入り込んでいる)夢の階層」に残留しなければならないのです。

また、夢の世界を創る際、記憶をもとに設計すると夢と現実の区別がつかなくなる危険があります。

(現実) ロサンゼルス行き飛行機の中(飛行機はサイトーが全部買い占める。)

1. (夢の第一階層での作戦) ロサンゼルスを舞台に、ロバートが父との関係を見つめなおすように誘惑し、遺言の存在を意識させる。 「残留」は調合師のユフス。

2. (夢の第2階層での作戦) とある高級ホテルを舞台に、ロバートに「自分で何かを作りたい」という意識を刷り込み、「遺言書」を狙う法律顧問のブラウニングにエクストラクト(=夢を見ている間に、その潜在意識に入り込みアイディアを抜取ること)を仕掛けるとロバートに思い込ませる。「残留」は、アーサー。

3. (夢の第3階層での作戦) 雪山にある病院を舞台に、ロバートを病床の父親と引き合わせ、「父のあとを継ぐのでなく、自分の道を進む」というアイディアを植えつける。「残留」は、イームス。

どうですか?付いて来られましたか?

夢と現実という二元世界をあれこれ楽しむ流儀は昔から人類に染みついています。仮想空間を作らないと誰も現実に耐えられないからでしょうか。小説、演劇、アートなどはそもそも必要に応じて作り出された仮想空間そのもので、人はそこに入り込み、別のリアルを模索するのであります。    

ドラッグによる脳内神経の化学反応で現実を攪拌する方法は、様々な映画作品に取り入れられています。また、{夢の中の夢}まではシェークスピアも用いましたが、この「インセプション」と言う作品のなかで、ロバートに{植え付け}任務を遂行する「仮想空間」は、『夢の中の夢の中の夢』という深層なのです。非常に、緻密なストーリー構成で、しかも、仮想空間・夢の3層構造は同時進行していきますので、スリリングでもあります。本当に、このようなアイディアに完敗であり、乾杯なのです。

どうぞ、是非、この数学的な緻密でスリリングなストーリー構成に、あなたも劇場で酔いしれてみて下さい。

本日は、見事な「ストーリー構成」の紹介が「酒の肴」となってしまいました。でも、このような「肴」も格別です。

では、また・・・。

2010年8月2日月曜日

悩むこと、それは素晴らしいこと。映画『パリ20区、僕たちのクラス』を見て感じたこと。

映画:『パリ20区、僕たちのクラス』は、移民の子弟の多い「パリ20区」(⇒ 小生、この「パリ20区」、全く存じ上げませんでした。)地区のある中学校で、理想主義に燃えた教師の奮闘と生徒とのやりとりを、ドキュメンタリーかと見まがうタッチで描いた作品です。

(1)映画について
 
第61回カンヌ国際映画祭で、審査委員長ショーン・ペンが絶賛しパルムドールに選んだ奇跡のような傑作、といわれています。21年ぶりに、フランス映画にパルムドールの栄誉をもたらしました。新聞や雑誌の映画評が、あまりにも高評価なので、小生も、久しぶりに“岩波ホール”へ足を向けました。

この映画が、多くの方々から評価を受けるのは主に、以下の3点です。

1. ドキュメンタリーとしか思えないほどの自然な演技に驚嘆し、先の読めないストーリー展開に胸を躍らせること。

2. フランソワ役の原作者フランソワ・ベゴドーをはじめ、映画に登場する教師も生徒もすべて素人なのに、ローラン・カンテ監督による丹念なワークショップの賜物か、別人になり切る見事な演技を見せてくれること。

3. 安直な和解とは無縁なリアリティに満ちた展開が、観る者を唸らせること。つまり、奮闘する教師・フランソワの思い描くように事態は展開しないのです。しかし、だからこそ、オーディエンスが、いつの間にか、作品に登場する生徒の誰かに、自らの中学生時代に自分が出会ってきた誰かを重ね合わせ、感情移入せずにはいられなくなるのです。

原題は『Entre les Murs』で、直訳すれば「壁の間で」となりますが、なぜか日本人のブログやWeb上での紹介では「壁の中で」と訳しているケースが多いそうです。原題は、教室内コミュニケーションにおける教師と生徒との間の障壁、そして生徒の中での民族間の障壁を象徴しているものだと思います。原作者本人が脚色に携わると同時に自ら教師役として出演しています。

(2)ストーリー

舞台は、移民が多く暮らすパリ20区の公立中学校・新学期の教室。この中学では生徒の大半が移民の子弟で、母語も出身国もバラバラ。そんな中で、正しい国語を身につけさせることこそ生徒たちの将来の幸福につながるという信念を持つ主人公のフランス語教師・フランソワが、様々な出身国を持つ24人の生徒たちが混じり合う教室のなかで、思いがけない反発や質問に翻弄されてしまいます。現実は情熱だけで解決できるような簡単なものではないのです。

例えば、去年は素直だったクンバは反抗的な態度で教科書の朗読さえ拒否する始末。また、自己紹介文を書かせる課題が大きな波紋を巻き起します。教室の中は真剣勝負の場です。教師も生徒も真っ向からぶつかり合います。ゆえに言葉というものの重要性が浮き彫りになります。誤解も批判も怒りも失望も、そして希望も言葉あってこそのもの。子どもたちのフランス語の力は、確かに日常会話ならほぼ不自由なく使えます。しかし動詞の活用は不確かだし、文語で主に使われる接続法の活用や、抽象的な単語は十分な理解が出来ない状況…。

 さらに、フランス人の親は、この学校はレベルが低いから自分の息子は転校させたい、と言い出すような学校であります。始業のベルが鳴ってもお喋りはやまず、授業に身が入らない子どもも多いのです。教師の中でも、レベルの低い馬鹿どもを相手に小学校で教えるようなことから教えなきゃならないのは耐えられないと愚痴をこぼすような者がいる状況です。ちょっとすればすぐ注意力が逸れたり、教師の指示に従おうとしない生徒たちに手を焼く毎日です。生徒の反抗的な態度に、フランソワ自身、頭に来て椅子を蹴飛ばして憂さを晴らすことも・・・。

しかし、生徒たちが教師を恐れなくなり指示を聞かないからと、ポイント減点制を導入し、一定のポイントに達した生徒は教育委員会に退学を諮ることにしようという一部の教師の提案には、フランソワは断固反対する。また、親がフランス語を話せず、本人も自分の学業に自信を持てない生徒の長所を発見して、彼の才能を発揮できる機会を作り、学業を続けさせる意欲をかき立てることにも成功します。

(そのようななかで、決定的な事件が起こります。)

生徒の成績評価会議に、生徒代表としてオブザーバー参加していた二人の女子生徒が、無責任にもそこでの会議内容をクラス内で話し、成績の悪い生徒を馬鹿呼ばわりしたことに対し、フランソワは怒って、ついその生徒をpetasse(ずべ公、売春婦)と呼びつけてしまうことで、フランソワのクラスにおける信用は一夜にして瓦解してしまいます。彼の努力は一部功を奏しながらも、結局はほんの一瞬の失敗により全ての努力は水の泡となり、生徒たちとフランソワの間の信頼関係は崩壊するのです。さらに手を掛けた生徒から退学者も出てしまう。さて、フランソワは、生徒達との信頼関係を取り戻せるのか・・・。

(3)監督について 

監督のローラン・カンテは1961年フランス、ドゥー=セーヴル県、メル生まれです。1999年『人材 (Ressources humaines)』で労使対立に起因する労働者の苦難を描いて国際的に注目されます。さらに2001年リストラされたものの家族に悟られないよう仕事に行くふりをする男を描いた『時間労働 (L'imploi du temps)』、2005年、1970年代末を背景に、ハイチへ黒人男を漁りに行く3人のフランス人白人中年女性を描いた『南へ (Vers Le Sud)』を撮っています。

今回のこの作品で、カンテ監督が子供たちから自然な演技を引き出した秘密は、撮影前のワークショップにある、と言われています。中学校で希望者を募って週1回、約7ヶ月間、彼ら一人一人の個性を把握し、能力を探り続けた、そうです。そして、最後まで通い続けた生徒たちの中から、この24人を選んだそうです。子供たちの設定は、すべてフィクションです。彼ら自身の性格を少し取り入れたキャラクターもあるが、ほとんどが自分とは全く違う生徒を演じています。監督を始めスタッフ、キャストの大人たちは、彼らの潜在能力に感動した、とコメントしています。 

(4)小生の感慨

教師たちは、決して聖職者ではなく、悩み苦しむ人間らしい労働者として描かれます。

小生、様々な出会いを求めて日々活動しておりますが、今、小生が語り合いたい方、それは「希望を求めて、悩み苦しみ、日々試行錯誤しておられる方」です。主人公が、真面目であるが故に、生徒の不真面目さが許せず生徒とぶつかり合う姿には、「俺、あんたの気持、よく判るよ!」と声を掛けたくなります。

試行錯誤を行う人間は「不器用」という言葉で、片付けられてしまう昨今ですが、試行錯誤を避けていては「希望」を勝ち得ることは不可能だと思います。私達は、無人島で暮らすロビンソー・クルーソーではないのですから・・・。

自分のセンスを全く理解しようとしない方とのコミュニケーションは非常に不愉快なものです。しかし、この不愉快さを、いかに克服していくのか、に悩むのです。この映画の主人公も、反抗的で、自己中心的で、ヒトの気持(=紳士に生徒を心配する気持)を理解しようとしない生徒と対峙することは非常に苦痛であった筈です。しかし、彼は試行錯誤を続けた。小生、ここに彼と共感するのです。全てが生々しく、あたかもドキュメンタリーの様にこの先どう転ぶか分からない緊迫感に溢れている「リアリティ」を突きつける作品です。

それにしても、成績判定会議に生徒代表がオブザーバーとして立ち合うなど、彼我の学校文化の差には驚かされます。また生徒たちも、騒いだりするとは言え、基本的には先生に注目して欲しいし、先生とコミュニケーションを取ろうとする姿勢が、一般的な日本人あるいは日本の学校システムとかなり違うように思われます。

まぁ~、ここで日仏間の学校教育のありかたを論ずるつもりはありません。小生、スクリーンのなかで、本気で悩んでいる教師・フランソワと出会い、「悩むこと、それは素晴らしいこと」と言う思いを強くしました。そうした気持を、今回はお伝えしたかったのです。

 さぁ~、本日の「酒の肴」、御堪能頂けましたでしょうか。それでは、また・・・。

2010年7月19日月曜日

あなたは、『愛だけが欲しかった、シスタースマイル』を知っていますか・・・。 

先週の朝日新聞土曜版beの「song 歌の旅人」にて、『スール・スーリール 「ドミニク」』について掲載されていました。実は、この人物、現在公開中の映画 『シスタースマイル ドミニクの歌』の主人公であり、実在の人物なのです。あなたは、この人物のことをご存知でしたか。

彼女は、ベルギーのドミニコ会フィシェルモン修道院に入ってシスター・リュック・ガブリエルを名乗り、修道院でギターを習い始め、やがて聖ドミニコを讃えた歌『ドミニク』を作曲します。彼女が口ずさんだ「ドミニク」を聞いた、修道院のトップが、この曲をドミニク修道院のPRとして世に出すことにします。 そして、音楽の才能を認められ、他の尼僧たちに励まされて1963年にレコードを発表となります。すると、その明るいメロディと美しい歌声が評判を呼び、彼女は“シスタースマイル”の芸名でレコードデビューを果たし、またたく間に大ヒットを記録することになります。このアルバムに収められた『ドミニク』が人気急上昇し、全米のヒットチャートに入ります。ビルボードではシングル(Hot 100)・アルバムの両チャートで1位を獲得しました。

 まさに、ヒトは、「彼女は誰もがうらやむような人生を送った。」と思うのです。

しかし、彼女の人生には、

母親との確執、自分を慕う少女・アニー・ペシェル(Annie Pécher)からの逃避、ギターとの出会い、ローマ・カトリックの開放政策、「ドミニク」のヒット、不合理なレコード契約、修道院を飛び出し慕い続けてくれていたアニーのもとへ・・・・・・そして、二人での自殺。

と複雑怪奇なストーリーがあるのです。こうした彼女の「人生」を丁寧に追ったのが、現在公開中の映画 『シスタースマイル ドミニクの歌』なのです。

まず、映画について触れる前に、彼女の経歴をインターネットから引用します。

//////////////////////(引用)/////////////////////////////////////////

ラ・スール・スーリール : La Sœur Sourire (1933年10月17日 -1985年3月29日 )はベルギーの歌手。ザ・シンギング・ナン(The Singing Nun)の名でも知られる。

本名、ジャンヌ=ポール・マリ・デッケルス(Jeanne-Paule Marie Deckers)。(以下、ジャニーヌ・デッケルス)

第二次世界大戦中は一家でパリに居住。ここで父はレジスタン運動に参加していた。1945年、一家はベルギーに帰国。1950年代末のベルギーは、まだまだ保守的な時代である。そうしたなかにあって、自分の人生を自分で選ぶことを願った女性、ジャニーヌ・デッケルス。サン・アンリに住んで学校に通ったが、1953年に単身パリへ留学し、美術学校に学ぶ。美術教師としての訓練を受けてブリュッセルに戻り、女子校で教壇に立った。

両親はベーカリーを営んでおり、両親は彼女に継いで欲しいと思っていたが、独立心旺盛なジャニンが選んだ道は修道院に入ることであった。その後、1959年に母親の押しつけに反発してギターを片手に修道院の門を叩く。そして、ベルギーのドミニコ会フィシェルモン修道院に入ってシスター・リュック・ガブリエルを名乗る。

修道院での厳格な生活に戸惑いながらも、この修道院でギターを習い始め、修道院の中でもギター片手にプレスリーの曲などをやり、年長の尼に怒られる。だが彼女が口ずさんだ「ドミニク」を聞いた、修道院のトップが、これはドミニク修道院のPRとして世に出すことにした。 シスターたちや院長から音楽の才能を認められたジャニーヌは、やがて聖ドミニコを讃えた歌『ドミニク』を作曲する。そして、作曲を始めたところ音楽の才能を認められ、他の尼僧たちに励まされて1963年にレコードを発表。その明るいメロディと美しい歌声が評判を呼び、彼女は“シスタースマイル”の芸名でレコードデビューを果たし、またたく間に大ヒットを記録する。このアルバムに収められた『ドミニク』が人気急上昇し、全米のヒットチャートに入る。ビルボードではシングル(Hot 100)・アルバムの両チャートで1位を獲得した。

彼女は一夜にして国際的なスターとなり、スール・スーリール(シスター・スマイル)の芸名を名乗って、1964年には『エド・サリヴァン・ショー』に出演した。だがジャニンの名前は出さず、「シスタースマイル」の名前でマスコミに出た。 1966年、彼女に関する映画『歌え!ドミニク』がデビー・レイノルズの主演で製作されたが、デッケルスはこの作品を「うそだらけ」と評して撥ねつけた。そしてジャニンは自分の名前が出ないことと、収益が全て修道院に入ったことなどで頭にきて、66年に修道院を出る。

自信に満ち溢れ、運命は己の力だけで切り開けると信じているジャニーヌは鼻もちならない少女。修道院に入っても勝手な行動を改めないなど、自ら決心して入門したのに驚くべき自覚のなさ。だが、「従順の掟」を破るほどの強い気持ちがあったからこそ名曲が生まれたのも事実。

1960年代後半は敬虔な宗教生活に入り、人前で歌うことをやめた。収入の大半は修道院に寄付していたが、1967年には音楽活動を停止。音楽的には新境地を開きつつあったが、デッケルスは徐々に忘れられた歌手になっていった。一つには、世俗的名声を軽蔑していたためでもある。1967年に出したセカンドアルバムの題名は"I Am Not a Star in Heaven"(私は天の星じゃない)だった。彼女は大変宗教的だったが、徐々にカトリック教会の保守性に批判の度を強めていき、最後には産児制限の支持者となった。1966年には、ジョン・レノンのキリスト教批判に共感していた。 1967年にはリュック・ドミニク(Luc Dominique)の名で、産児制限の賛歌『黄金のピルのために神の栄光あれ』を録音したが、商業的には惨憺たる失敗に終わった。

音楽活動を停止した後、10年来の親友アニー・ペシェル(Annie Pécher)と共にベルギーで自閉症児童のための学校を開いた。しかし1970年代後半(American Top 40の1978年7月22日の放送で報じられた)、ベルギー政府が彼女に対して5万米ドルの追徴課税をおこなうと発表した。これに対してデッケルスは、金は修道院に寄付したものであり課税の対象外となると主張したが、寄付だったことを示す領収書が存在しなかったため彼女の言い分は認められず、深刻な経済苦に見舞われることとなった。

1982年には芸能界への復帰を図って失敗している。

そして彼女はペシェルと共に睡眠薬と酒を過剰服用し、自殺した。ペシェルとの間に同性愛関係があったか否かは定かでないが、二人は共同に埋葬された。

映画ではこの二人の関係の最後を描いてないが、テロップで流れる。

///////////////////////////(引用終わり)/////////////////////////////////

小生も、この映画を観るまでは、「シスタースマイル」のことは全く知りませんでした。この映画を観る限り、「シスタースマイル」と呼ばれた彼女は、修道女のイメージとはかけ離れた、まるで自虐区的なパンク・ロッカーの様に感じます。正しいと思った道理は曲げられない、「心の声」に従って生きるヒロイン。数々の軋轢と挫折、それでも信念を貫こうとする意志の強さは一種変人のようですらあります。束縛を嫌い、命令を拒み、短慮であるが、人を楽しませる愛きょうもある。しかし、そんな彼女も、やはり寂しかったのだと思います。

感情を純粋に放出する彼女は、あまり魅力的とは言い難い人間なのかもしれません。しかし彼女が口ずさむ親しみやすいメロディは、作品を見終わった後もしばらく耳から離れませんでした。教会は、彼女の「純真な心」を利用したのかもしれません。しかし、彼女は、「ドミニクの歌」をリリース後は、自信に満ち満ちて、全く周囲が見えなくなってしまいます。唯一の救いは、友人・ペシェルのみ。

映画は、できるだけ彼女の実像を再構築しようとする一方、彼女の態度にどんな評価も下しません。成功者としての栄光も、あとの凋落も、客観的な視点から同列に扱い、ジャニーヌという強烈な個性を浮き上がらせます。朝日新聞の記事の言葉をかりれば、「彼女は自分を丸ごと受け入れる絶対的な愛を求め続けました。だから、歌への大衆からの支持を、彼女は『絶対的な彼女に向けられた大衆からの愛』と感じた。」のでしょう。彼女にとって、「愛」とは、(他者から自分へ)与えられるべきものであって、自分が与えるべきものでなかったのかもしれません。ここに大きな「落とし穴」があったのは間違いないと思います。“レコード会社”と“教会のPR部隊”は、彼女のこうした純真な心利用し、「大衆からの彼女への愛」を巧みに演出します。しかし、それは彼女の「純粋さ」を踏み潰します。踏み潰されたら最後、彼女は破滅の道を辿ることになります。

あぁ~、ひとつの才能が、唯、一つの曲・「ドミニク」だけで閉じてしまいました。

非常に痛ましい、悲劇であります。スコッチを飲みながら、スクリーンのなかで、孤独にジンを飲んでいた彼女の姿を思い浮かべます。

小生には、栄光の道を登り始めた彼女の姿より、痛ましく崩壊していく彼女の姿の方が脳裏に焼きついています。唯、今は、絶対的な愛を求めた、孤独のヒロインに黙祷です。

2010年7月12日月曜日

『親愛なる、石ノ森先生』へ・・・。

天国の石ノ森先生へ・・・。

天国での生活は如何ですか。先生の『絵』で、天国の様子を下界の我々に教えて頂きたいものです。

先生の作品は、本当に『絵』が素晴らしい!と、思っております。数多くのクリエーター達も、「石ノ森先生の『イメージを“絵”にする能力』の素晴らしさ」を賞賛しております。「イメージを“絵”にする能力」というのは多くの感動を呼び起こします。「音」を“絵”にする、「言葉」や「概念」を“絵”にする、このような課題を先生は、見事に体現してしまいます。芥川は“地獄”を描くことを小説にかきましたが、先生には、是非,“天国”という概念を“絵”で表現頂きたいです。その“天国”の先に、希望を見出したいから・・・。

先生の“クリエーターの哲学”とは、『イメージを“絵”にする卓越した能力』が可能にした『萬画宣言』(“まんが”宣言、と読む)!(手塚先生によって確立された)“マンガ”(『漫画』でない)によって、「全てを語ろう!それは可能だ!」というのが、後年の先生の思いだったそうですね。確かに、88年ごろからは『日本の歴史』や『経済の仕組』なども「萬画」で表現しておられました。“ぶっとんだ”発想です。

また、先生は、『若手クリエーターへの伝承』ということを非常に意識されたそうですね。

『がんばれロボコン』『美少女仮面 ポアトリン』『ゼロゼロ ナイン ワン』『星の子 チョビン』といった作品は、「原作 石ノ盛章太郎」となっていても、現実は、先生はキャラクターデザインのみ手がけ、その他は若手クリエーター達の創作ですよね。そうした先生の思いを受けて、『幻魔大戦』『スカルマン』などは、「若手クリエーター達(宮崎先生も石ノ森チームで活躍しました。)が、既存の石ノ森作品に『プラスの価値』を加える方向」で、作品進化させました。ここには、素晴らしい「伝承」が感じられます。

伝承という意味では、『サイボーグ 009』と『仮面ライダー』という2作品は特筆されます。両作品とも未完です。詳細は章を改めます。

ところで、小生が一番好きな先生の作品は、『サブとイチ』です。『化粧師(“けわいし”と読む)も好きです。『サブとイチ』は、TV放送と雑誌連載が、小生が4か5歳のとき開始。TV放映をオンタイムで見ていました。コミックは、1999年に購入して全部読みました。今でも、時々コミックを押入れから取り出して読みます。

先生は、『TV放映』と『雑誌掲載』とを明確に分けて捕らえておられましたね。先生は、「TV放映を観る」という行為は子供達でもできるが、「雑誌を読む」と言う行為は少年・青年によって行われる、という認識をされていたそうですね。最近、『仮面ライダー』『キカイダー』といった作品のTV版とコミック版とを拝見する機会がありました。両作品とも、『コミック版』は、登場人物の深層心理描写が綿密に行われ、純文学作品のような内容であることを知りました。

 さて、『サイボーグ 009』について語りましょう。小生は、 1・2シリーズのTV放映とコミックを知っていました。『仮面ライダー』は『進化するヒーロー』として、『サイボーグ 009』は『変化しないヒーロー』として伝承させてほしい、というのが先生の思いだそうですね。『サイボーグ 009』・第3シリーズ終了後、先生は亡くなられました。しかし、そのなかの「2作品」が完成を見ないままになっております。

 内容は、ブラックゴースト団との戦いをおえたサイボーグ戦士たちが、『天使たちとの戦い』 『神々との戦い』を行うと言うものです。これを『完結』させてほしい、ということを先生は、生前、二人のご子息に依頼したそうですね。『完結編』のストーリーを長男(小野寺 ジョー:俳優・作家として活躍。しかし、石ノ森章太郎の長男であることは隠しておられます。)に、映像化を次男(小野寺 章:石ノ森プロダクション社長)に託されたそうですね。

 現在、『完結編』の1章から4章までが「小説 1巻」として出版されています。ここで、001から004までのことが描かれています。この作品の、『敵のブラックゴーストの正体は、人間の「悪の部分」が増殖させた細胞体』、『神々は、人間の“おろかさ”に幻滅し、人間は生存をかけて神々と戦う』という設定に興味を覚えます。こうした「イメージ」を、「映像」できる先生の「才」に敬服します。

『仮面ライダー』についても触れたいです。小生は、 1・2号ライダーの活躍をTV放映で観ただけです。
「仮面ライダー」は、「進化するヒーロー」、ですから現在もTV放映・雑誌連載されています。
歴史は、
①「1号」から「ストロンガー」までが第1期。
最後、7人のライダーが『悪の総統』と戦う、と言うストーリーです。「結局7人のライダー達が戦ってきた『悪の総統』は同一人物で、最後は宇宙へ脱出という設定です。この「第一期」に主人公を務めた俳優さん達には、基本、「高い運動神経」「バイクを操作する能力」「アクションスターとしての訓練」が求められました。当時、斜陽になった映画業界から、たくさんの若いクリエーター達が『仮面ライダー』の作成チームに加わり、再起をかけた若い意気込みが、素晴らしいパフォーマンスを体現した(最高視聴率30%)ということを、昨今知りまして感激しました。

②「スカイライダー」数本の映画作成を経て、「ブラックライダー」の誕生が、第2期。
石ノ森先生が携わった最後の「仮面ライダー」TVシリーズだそうです。ブラックライダー シリーズでは、「悪のライダー」と戦う、というコンセプトになります。『「自分の敵」は「自分』 『未完成の自分の進化』など、石ノ森作品の基本コンセプトが表現されています。キャラクターデザインセンスも抜群です。

③数本の作品作成を経て、石ノ森先生の死後、2000年から『平成ライダー シリーズ』として、第3期があります。私も、『平成ライダー シリーズ』というのは、全く知りません。唯、数本、最近鑑賞する機会がありました。そこで感じたのは、(我々が観ていた)第1期との差異です。以下、小生の差異を簡単に述べます。(Ⅰ)デジタル映像による映像。・(Ⅱ)主人公を演じる俳優は必ずしもアクションスターである必要はなくなった。俳優としての演技力を強く求められている。(例えば「仮面ライダー クウガ」の主役が、あのオダギリジョーさんだったのには驚きました。でも演技は素晴らしかったです。) ・(Ⅲ)設定コンセプトは複雑になり、1話完結でない。主人公も、『完全ヒーロー』でなく、「食事シーン」などもあるのには驚きました。そして、「仮面ライダー 龍崎」などは、13人の仮面ライダーが、最後のひとりになるまで互いに戦うというストーリーであったのには本当にビックリです。

『仮面ライダー』シリーズに関して、今日までに小生が思っていることを述べれば以下のようになります。
①『仮面ライダー』とは、コンセプトの設定・「毒」を感じるキャラクターデザイン・悩むヒーローなど、石ノ森作品の要素が終結した集大成作品だと思います。
②「進化しながら伝承される作品」としての一面を『仮面ライダー』は持っている。
③若いクリエーター達が、「活動・活躍の場」として、この『仮面ライダー』を育ててきた。

しかし、こうして改めて先生にお手紙を書き綴っておりますと、石ノ森章太郎という「クリエーター」の輝くパワーに叱咤激励されるような気持になります。「イメージを大切にする。」「伝承」「進化」、いずれもクリエーターには大切なことです。

本日、梅雨の雨を愛でながら、先生の『サブとイチ』を手にしております。何度読んでも、面白く、画面の斬新さには常に新たなる発見を見出します。

映画館では、『仮面ライダー』の新作が上映されております。さすがに、チケット売り場で、「仮面ライダー、大人・1枚」というのは恥ずかしいので、劇場公開作品は鑑賞することが困難です。劇場公開作品と言えば、古の『空飛ぶ幽霊船』などの作品は、小生、いまでもその内容を覚えております。衝撃的な作品でした。

もう、石ノ森先生の新しい作品を観ることはかないません。しかし、また、若きクリエーターが先生の「才」を継承し、新たな作品を我々に紹介して下さると思います。そんな若きクリエーターの出現を楽しみにしながら、ここに筆を置きたいと思います。

石ノ森先生、有難う御座いました。

2010年7月5日月曜日

『映画の音響効果』を考える。 (映画 『ミルコの光』を観て思うこと。)

昨今は、3Dやアイマックスやドルビーサウンドなどの登場で、映画の「視聴覚効果」は素晴らしい発展を体現しています。

そこで本日の「酒の肴」は、盲目でありながらその天賦の才能を生かし、日本でもロングランヒットの記憶が新しい『輝ける青春』を手掛けるなど、イタリア映画界の第一線で活躍するサウンド・デザイナー:“音の魔術師”ミルコ・メンカッチの、フィクションよりもはるかにドラマティックな少年時代の実話に基づいて創作された映画『ミルコの光』を紹介しながら映画の「音響効果」を考えてみたいと思います。

イタリアの映画界でサウンド・デザインを担当するミルコ・メンカッチは、この分野では第一人者であります。1970年代初頭のイタリア、トスカーナ地方。10歳になるミルコは両親に深く愛される、利発で映画が大好きな少年でした。しかしある日、祖父の古い銃を過って暴発させてしまったミルコは両眼に重傷を負い、その視力はほとんど失われてしまいます。1970年代当時、イタリアでは視力に障害を持つ者は普通の学校ではなく盲学校に入らなければならないと法律できめられていました。ミルコもトスカーナの自宅からジェノバの寄宿制の学校に親から離れて学ぶことになります。しかし、当時の盲学校は、視力に障害を持つ子供達の職業訓練校と化していました。子供達の進路は運命付けられ、その路線を安全に走行できるように訓練が敢行されるわけです。

しかし、後の「音の魔術師」は、そんな御仕着せの路線に適合することはありませんでした。ミルコは心を閉ざします。そんなミルコはある日、テープレコーダーを見つけます。しかし、古い規律や体制を重んじる学校側は、ミルコからその楽しみを取りあげようとします。盲人は障害者であり、実社会でつらい失望を味わうよりは最初から幻想を抱かない方がいい、というのが自らも視力を失った校長の言い分だったのです。けれど、彼の聴力の才能にいち早く気づいたジュリオ神父は、学校に内緒でミルコに新しいテープレコーダーを渡します。

作文の時間、ミルコは点字ではなく、寄宿舎で見つけたオープンリールのテープレコーダーに雨の音や鳥の声などを録音し、それを編集して提出しますが、校長に拒絶されてしまいます。しかし担任のジュリオ神父はミルコの音に対する才能を見出し、校長に内緒でデープレコーダーを与え、ミルコの友達たちと協力してストーリーを作り、それをドラマとして仕上げていきます。

“音”との出会いに新鮮な喜びを感じるミルコ。そして、彼の優れた聴力に気づいた担任の神父が救いの手を差し伸べるのです。ミルコは、寮の管理人の娘である少女フランチェスカにも助けられ、その後も物語を録り続けます。やがて、フランチェスカが考案した物語にクラスメイトたちも興味を持ち、その遊びに参加するようになります。

 ある晩、ミルコたちは学校をこっそり抜けだして映画館に行きます。こうした体験が、閉ざされた世界に暮らす子供たちにも夢と可能性があることを気づかせていくのです。だが、新しいテープレコーダーを使っていることが校長に発覚し、ミルコは退学処分を宣告されます。それは彼にとって学ぶ機会を失うことを意味していました。

 ミルコが自分自身の戦いに立ち向かっている頃、学校の外では社会を変えるためのもっと大きな戦いが始まっていました。抗議デモが頻発し、広場は学生たちで埋め尽くされています。そんな運動家の一人に、以前ミルコとフランチェスカが知り合った、エットレという視覚障害者の青年がいました。退学処分という仕打ちを知ったエットレはある策を思いつきます。そして、待ちに待った学年末の発表会の日を迎えます。ジュリオ神父とミルコたちによる童話劇が始まるのですが…。

主人公のミルコ少年は不慮の事故で視力を失ってしまい、暗闇での生活を余儀なくされていました。それと対比するかのように、トスカーナの陽光が眩しかった。その後視力を回復し、現在イタリア映画界の第一線でサウンド・デザイナーとして活躍するミルコ・メンカッチ氏は、ひとりの理解ある教師に出会ったからこそ、“天才”がこの世に出ることが出来るまでを、“音”と“映像”で見せてくれます。

この映画を通して、いかに“音”というものが大事なことかを改めて知らせてくれます。

さて、視力を失っていたミルコは、「音」の持つ可能性を誰よりも知っていたのではないでしょうか。そして、ひとつひとつの「音」を大切にしていたように思います。

 映画によっては、「音」が溢れ返っている作品があります。戦争映画、ヤクザ映画、マフィア映画、その他、激しいサウンドでオーディエンスの気持を高揚させようとする作品は数多く存在します。そうした作品を鑑賞する時、音響という意味では、多少劇場の音響設備が貧弱でもあまり問題は無いと思います。こうした溢れるサウンドを取り入れた作品を鑑賞するときこそ、音響設備は大切だと思う方もいらっしゃると思います。しかし、本年も既に劇場で70作品を鑑賞した小生ですが、こうした「音」が溢れている作品や場面では、多少貧弱な音響設備でもオーディエンスの気持は高揚し、結構楽しめるものです。

 しかし、「音」が殆ど存在しない場面などでは、音響設備の良し悪しにオーディエンスは非常に敏感になると思います。

廊下をひとりの暗殺者が歩いている。聞こえてくるのは、暗殺者の足音だけ。と、突然、その足音が止まる。そして、ドアが開く。ずどぉ~ん!

このような場面を想像して見て下さい。こうした場面こそ、「音響効果」を想像するサウンド・デザイナーの力量が大切になってくると思います。見事なサウンドクリエイトと、最高の音響設備が、「リアル」を越えた「リアル」な音響効果を体現します。「音」が制限された作品や場面ほど、「音響効果」はその真価を問われると思います。

 小生、“音の魔術師”ミルコ・メンカッチ氏に、以下のことを御願いしたです。

嘗て松尾芭蕉がよんだ、「古池や 蛙飛び込む 水の音」という俳句を、映像と音だけで再現して頂きたい・・・。

そうです。こうした課題こそ、サウンド・デザイナーの素晴らしさを再認識できるのではないでしょうか。あぁ~、何時の日にかミルコ氏が創造された「古池や・・・」を観て聴いてみたいものです。

以上で本日の「酒の肴」は終わりです。如何でしたか・・・。それでは、また。