2010年4月26日月曜日

「数学の楽しみ方」 アダム・ファウアー著 : 『数学的にありえない』(上下巻)を読んで、思ったこと。

かなり前になりますが、ある「新聞記事」が、面白いことを教えてくれましたんや。
それは、インド人・数学の先生のコメントです。

 先生曰く、インドでは、14×17 を 10×(10+4+7)+4×7と考えるそうな!つまり、14×17=(10+4)×(10+7)と置き換えるのですなぁ。先生曰く、「これは数字の感性」だそうです。かっこええですなぁ!これなら、鉛筆を持てない時でも、『答え:238』と計算できるますわなぁ。

さて、本日はこうした「数学の楽しみ方」を我々に教えてくれるミステリー作品をご紹介します。その作品とは、アダム・ファウアー著 : 『数学的にありえない』(上下巻)です。本日の「酒の肴」、味わう前にまず、スコッチ・ストレートをぐぐっとあおると良いですよ。
では始めましょう。

上記作品は、既に16カ国で出版されたベストセラーである。我が国では、文芸春秋さんが出版しており、文庫化もされました。
推理作家協会の新会長・東野圭吾さんが、昨年度(平成21年)の江戸川乱歩賞によせて下記のコメントを綴られた。(注:江戸川乱歩賞・推理作家協会賞は、我が国で唯一、出版社が関与しないものである。)
「我々は、うまくまとまっている作品には興味がありません。それよりも何か、斬新な要素に惹かれます・・・・」じゃあ、「あまりまとまってはいないが、斬新さを感じる作品とはどんな作品?」と尋ねられたら・・・、小生ならば、この作品を推奨するであろう。

この作品は、ミステリーである。舞台はアメリカ、ひとりの若き数学者(現在難病を患い退職)が国家安全保障局から追われることになる。彼は、単なる数学者だが、異常な計算能力を持つ。まるで映画『レインマン』に登場する兄のように・・。彼は、特に運動能力や戦闘能力などに優れているわけではない。だが、数学的センス、つまり確率論を用いて、追っ手からの幾多の困難を乗り越えていくのである。そして最後は、無事に国家安全保障局から逃げ切る。途中、双子の兄やCIAの女性コマンダーなどを味方にする。

 この作品、ミステリーとしては、特に斬新な作品ではない。しかし、この作品、上記ストーリーのなかで読者に、ラプラスの『確率の分析的理論』を説明するのです。
もう少し判り易く説明すれば、ラプラスの唱える「決定論:あらゆる事象や出来事はすべて物理学的法則によって決定される」という概念を作品を通して証明しているのである。
主人公(逃げまくる数学者)曰く、「人間には宇宙の実相をすべて計測する能力が無い、ということが決定論を否定することにはならない。」と・・。そして、又曰く、「人間の行動を決定する要因は、100%の確実性ではなく、誤差を最小限にとどめようとする意思である。」・・。彼は、ここから「人間の行動は予知できる。」という結論を導き、彼の卓越した計算能力がこれを確実にしていく。

国家安全保障局は、彼の予知能力を決定分析するため彼を捕獲しようとする。だが、彼は上記の定理に基づき、苦難に出会うたび、様々なシミュレーションを行い、脱出ルートを確保するのである。脱出ルートとは、彼の場合、常に敵から逃れることではなく、時において、というか「誤差、もしくは、間違う可能性が他の事象より低い場合には」、わざと敵に捕まってしまうのである。

さてここで、主人公が、CIA女性コマンダーを味方にするときに、彼女を説得する場面を再現しよう。

・・・・・・・・・・・・・(再現始まり)・・・・・・・・・・・・・・・・
なぜ、予知が可能なのか・・。それでは以下の事象を考えてみよう。

(コインを取り出し)ここにあるコインを4回投げる。「そのとき表が出る確率は?(=何回、表が出るか?)」、と尋ねられたら、君は2回と答えるであろう。つまり、「2分の1 × 4 = 2」である。確率論的なアプローチ(確率論とは統計学を予言する方程式をつくる学問。)である。
 では、今度は統計学的なアプローチ(統計学:実際の出来事を計測する学問)を試みてみよう。
この事象の場合、全ての起こりうる事象を検証することが可能である。起こりえる事象は16通り。
このうち、表が0回の事象は1通り
        1回の事象は4通り
        2回の事象は6通り
        3回の事象は4通り
        4回の事象は1通り、である。

ここから判るように、「2回」という回答は、それが誤解答である率が、62.5%もある。つまり、丹念にコインを4回投げる実験を繰り返せば、「表が2回でること」は半分以下の場合である。(16通りのうちの6回)
それならば、なぜ、ヒトは「表は2回出る」と答えるのか?そうなのである、2回以外の回答では、誤解答となってしまう確率が、62.5%以上になってしまうからである。

0回・4回と答えれば、誤解答率:93.75%
1回・3回と答えれば、誤解答率:75%となる。

さぁ、もう判ったかなぁ。人間は誤差を最小限に留めるように行動するのである。予言の方程式の最終目標は、完璧に予言することではない。間違う可能性を最小限にすることである。だから、国家安全保障局から完璧に逃れられる方法を見つけるのでない。捕獲される確率が最小の事象を探し、行動しているのである。この理論を前提にすれば、予知は可能になる訳である。

・・・・・・・・・・・・・・(再現終わり)・・・・・・・・・・・・・・・

判りますかぁ?
この作品は、こうした調子で、ラプラスの理論の概念を読者に伝えていくのである。ストーリーは、あのダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』のごとく、主人公が逃げ回る、ジェットコースター・ノベルである。読者は、ハラハラ・ドキドキしながら、先へ先へと作品を読む。
唯、主人公が脱出策を考える思考理論は、ラプラスの確率理論を用いており、そのことで読者は
ストーリーの他に、『ラプラスの理論の美学』を堪能できるのである。この意味において、この作品は斬新なのである!!まぁ~、この作品、表題も非常に魅惑的であるなぁ。

主人公が、追っ手から逃げ惑うときに、抜群の計算能力を持つ主人公は、上記の様な「計算」と「行動シミュレーション」を、コンピューターの力を借りることなく、瞬く間に完結するのである。そして、迫り来る危機を的確な判断で回避していくのである。各場面の主人公の判断を裏付ける「思考過程」が、上記の様なカタチで読者に紹介されるのである。主人公の「数学的な発想」は非常に魅力的であり、主人公の「数字の感性」に読者は魅了されるわけである。

数学を楽しみたくなった方、数字の感性を味わいたい方、この作品を一読されることをお薦めします。

本日の「酒の肴」は、ここまで・・・。如何でしたか?
ご堪能頂けましたら幸いです。では、また・・・・・・・。

2010年4月19日月曜日

「拝啓、ダ・ポンテ様」映画 『ドン・ジョヴァンニ』を観て思うこと。  “ネタバレ注意”

拝啓、ダ・ポンテ様。

たいへん、お恥ずかしいことなのですが、
小生、先週の日曜日に、ポンテ先生が登場される映画『ドン・ジョヴァンニ』を拝見して、先生がモーツァルトとの共同作業で、1786年『フィガロの結婚』(原作ボーマルシェ)、1787年『ドン・ジョヴァンニ』(台本にはジャコモ・カサノヴァも協力した)、1790年『コジ・ファン・トゥッテ』という3作品のオペラを創られたことを知りました。

聞くところによりますと、この頃のモーツァルトは、ウィーンの宮廷に職を見つけることができずに失望をかみしめる日々を送っていた、とのことです。なんとしてもイタリアオペラで成功しなければならない。それには宮廷一の台本作家ダ・ポンテの協力がどうしても必要だった。しかし先生はあれこれ理由を見つけては台本の制作を先延ばしにしていたそうですね。

モーツァルトは父親にあてた手紙の中で当時の様子を次のように語っています。

「ここウィーンにはダ・ポンテ師という詩人がいます。いま劇場用に台本を書き換える仕事で大忙しですが、それが終わったら、僕のためにも台本を書いてくれると言っています。しかし彼が約束を守ってくれるのか、あるいは約束を守る気があるのかどうかはわかりません。イタリア人というのは皆そうしたものだということを、お父さんだってご存知でしょう。面と向かうととても愛想がいいのです。いや、もうよしましょう。そんなことははじめから判っていたことです。それに彼とサリエリとのあいだで話がついているとすれば、ぼくのために作品を書くはずなどないのですから。でも、僕はなんとしてでもイタリア語のオペラで自分の腕前を披露したいのです」

小生が調べましたところ、
先生はヴェネト州のチェネダでユダヤ人の家系に生まれた。元の名前はエマヌエーレ・コネリアーノであった。1763年に一家はキリスト教に改宗して、洗礼を行った司教ロレンツォ・ダ・ポンテの姓を名乗り、エマヌエーレの名前をロレンツォとした。先生はのちに聖職に就き、ヴェネツィアで暮らした。しかし、放蕩生活を送ったために1779年にヴェネツィアから追放された。

1781年の終りにヴィーンに行った。ウィーンに移住した先生は、アントニオ・サリエリの口利きによって台本作家としての能力を認められ、ヨーゼフ2世の宮廷で詩人としての職を得た。この頃、皇帝ヨーゼフⅡは、ヴィーンにおけるドイツ・オペラの推進を断念し、イタリア・オペラをもう一度盛り返そうにさせようとしていた時だったため、先生は時を得て皇帝から大いに気に入られ、重宝され、宮廷劇場の詩人として起用されるに至った(1783年)。先生は語学や詩作能力に優れ、典型的な宮廷劇場詩人となった。宮廷での主な仕事は、フランス語の台本をイタリア語に翻訳することと、ヴィーンの作曲家のために新作の台本を書くことであった。ヴィーンでの最初の台本は、宮廷楽長サリエリ(1750-1825)のためオペラ「1日だけの金持ち」であったが、これは失敗作となる。先生はサリエリの音楽が悪いと主張しています。1786年のマーティン・イ・ソレル(1754-1806)のためのオペラ「ぶっきらぼうだが根は善良」で大成功をおさめ、この年には6つの台本を生み出しています。

先生は、何年もの間、オペラのイタリア語台本を作成する仕事を続け、さまざまな音楽家に膨大な数の台本を提供して成功を収めました。モーツァルトとの共同作業で代表作となる3つのオペラを作ったのは次の年です。1786年『フィガロの結婚』(原作ボーマルシェ)、1787年『ドン・ジョヴァンニ』(台本にはジャコモ・カサノヴァも協力した)、1790年『コジ・ファン・トゥッテ』と・・・。

さて、先生が始めてモーツァルトに出会ったのは、1783年、ウィーンの宮廷でオペラの台本作家として活躍しているときでした。二人を引き合わせたのは、オッフェンバッハの銀行家ウエッツラー男爵だったといわれています。
ウィーンに来て二年、イタリアオペラを作るためにむなしい努力を続けていた二十七歳の若きモーツァルトは、オーストリアでもっとも有名な台本作家である先生に会うのをどれほど心待ちにしていたことでしょう。
(先生が)出会った当初、モーツァルトは先生にとって取るに足らない存在だったのでしょうね。モーツァルトがウィーンに来てはじめて書いたオペラ『後宮からの逃走』が、ヨーセフ二世から芳しい評価を得られなかったということが大きく影響していたのかもしれません。ヨーセフ皇帝は音楽に造詣があり、演奏に関しても秀でた才能を発揮したといわれているが、あたらしいモーツァルトの音楽をすぐに理解することはできなかったのです。

結局お二人が最初のオペラ『フィガロの結婚』に着手したのは、出会ってから2年以上もたった1785年の秋のことでした。当時は、下記のようなやり取りがあったのでしょうね。
「わたしの書く台本に曲をつける気持ちがおありですか」と先生がモーツァルトにたずねる。
「もちろんです、ぜひともやらせてください」即座に答えたものの、モーツァルトはすこしばかり不安げに付け加えた。「ただ、わたしが今考えている芝居をオペラにすることが許されるかどうか……」
「それをなんとかするのが私の仕事ですよ」と。

映画の中に、先生が、『ドン・ジョヴァンニ』の製作をモーツァルトに持ちかけるシーンがありますが、あの時の先生は目を輝かせ、モーツァルトを口説きます。まるで、男娼を買い入れる様に・・・。
そして、『罰せられた放蕩者・ドン・ジョヴァンニ』は、まさに、お二人のこれまでの放蕩振りを踏襲するかのようでありました。作中に、残されたレポレッロがエルヴィーラに「旦那に泣かされたのはあんただけじゃないよ。イタリアでは640人、ドイツでは231人、しかしここスペインでは何と1003人だ。」と有名な「恋人のカタログの歌」を歌って慰められるシーンがありますが、これは先生ご自身の体験に基づいているのではありませんか。先生は、女好きだったのでしょう。少なくとも、この『ドン・ジョヴァンニ』を創作した頃は・・・。この映画は、その時の様子を見事に描いております。同時に、その時の先生の恋愛遍歴を巡る心の葛藤をも見事に描いておられます。おそらく先生は判っていらっしゃったのでしょう。先生が複数の女性に好意を覚えれば、それぞれの女性達はいがみ合い、葛藤し、先生もまたこうした葛藤に巻き込まれ不愉快な思いをすることを・・・。しかし、「判っちゃいるが辞められない!」とは、まさにこの頃の先生の為にあるような言葉。

『ドン・ジョヴァンニ』の最初の場面で、ドン・ジョヴァンニの従者レポレッロは「こんな主人に仕える仕事はいやだ。」とぼやいているシーンがありますが、確かに、浮気を繰り返し放蕩と続けるドン・ジョヴァンニに従うことは苦痛でしたでしょうね。先生は、自分の懺悔を、ドン・ジョヴァンニに語らせていただのですね。
しかし、先生は、同じような天才型・放蕩者:モーツァルトと出会うことで、自らの「放蕩振り」を芸術の域にまで高めてしまうことに成功しました。映画の中で、オペラ 『ドン・ジョヴァンニ』を創作されているお二人は輝いていました。「理解しえる友を得た」という思いが、先生の中に沸き起こったのでしょうね。お二人は、周りの方々をどれほど苦しめたか判りません。

けれども、小生は、先生の「放蕩」や「女性遍歴」を理解します。もちろん、小生が先生の真似をしようとするものではありません。倫理的に許されない行為こそが、崇高な芸術を生み出すという「神様の悪戯」は、本当に皮肉なものです。しかし、清廉潔白な生き方からは、人々を感動させる作品は産み出ないのかもしれません。それと、あれだけ「放蕩」を続ければ、実は、「崇高な境地」というのも誰よりも理解できるのかもしれませんね。
『ドン・ジョヴァンニ』、最後は復讐にやってきた石像がジョヴァンニの手を捕まえ、「悔い改めよ、生き方を変えろ」と迫る。初めて恐怖を感じながらも執拗に拒否するドン・ジョヴァンニ。ついに「もう時間が無い」といって石像が消えると地獄の戸が開き、ジョヴァンニを引きずり込む。そして、アンナは悪人であるドン・ジョバンニのために1年の喪に服すといい、オッターヴィオも従う。エルヴィーラは愛するドンジョバンニのために修道院で余生を送るという。マゼットとツェルリーナは家にもどってようやく落ち着いて新婚生活を始めようとする。レポレッロはもっといい主人を見つけようという。一同、悪事をなすもののなれの果てはこうだと歌い、幕となります。

でも、人々は長らく先生とモーツァルトの創られたこのオペラを愛し続けています。なぜなのでしょう。もし、スクリーンから先生が飛び出して来られるのなら、是非ともじっくり酒でも飲みながら、その辺りの事を伺いたいのです。
映画のなかのダ・ポンテ先生、本当にあなたは偉大でありました。機会があれば、オペラ『ドン・ジョヴァンニ』を一緒に拝見したいものです。

以上、「放蕩」に徹し切れないものより。

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2010年4月14日水曜日

『コラージュ(糊付け)』の楽しみ方。

小生、昨日・金曜日に映画館へ行った。小生、明日・日曜日にも映画館へ行くでしょう。小生、「映画館」という空間に身を置くことが好きなのです。この点は、別の機会にお話致しましょう。

さて、昨日は、邦画『誘拐ラプソディー』という作品を鑑賞しました。
ストーリーは、至って簡単です。

前科者青年・伊達秀吉は小さな工務店に勤務するも、借金を重ね、どうにもこうにもならなくなって勤務先の工務店を飛び出す。桜の咲く中、自殺を試みるが、それも叶わない。そんな時、偶然、家出少年・伝助と出会う。家出少年の割には、伝助少年の身なりは「お坊ちゃま」スタイルであった。カネに困っていた秀吉は、服役中伝授された「誘拐犯の極意」を思い出す。そして、ついついの出来心から伝助少年を誘拐する。早速、秀吉は伝助少年から携帯電話を奪い、母親に5千万円の身代金を要求する。そして計画通り、秀吉は5千万円を手にする。

ところが、この伝助少年、実は、暴力団の会長のご子息であった。カネを手にした秀吉は、当然、警察よりも始末の悪い暴力団から追われる身となる。家出した伝助少年と共に、追っ手から逃走する秀吉。さらに警察もこの誘拐事件を知ることになり、秀吉は、暴力団と警察から追われる身となる。結局、秀吉は捕まるのだが、逃走中に秀吉は、自身の不遇の反動もあって、伝助に暖かな愛情を注ぐようになる。そして、秀吉と伝助の間には、親子の様な絆が芽生えた。

この作品は、明らかに「コラージュ」である、と小生は思います。上記の前段は、黒澤監督の『天国と地獄』。後段は、クリント・イーストウッド監督/ケビンコスナー主演の『パーフェクト・ワールド』。さらに細部には、その他の作品のエキスが散りばめられています。

では、この『誘拐ラプソディー』、価値の無い作品なのか。小生は、決してその様には考えません。「コラージュ」には、「コラージュ」の面白さがあると思います。

話は、少し逸れますが、数年前、世田谷美術館で、『横尾忠則展』が開催されていました。この展覧会で小生は、横尾先生の得意とする『コラージュ』の醍醐味に酔いしれたのです。

例えば、展示作品の中に『(江戸川乱歩さんの)少年探偵団が、ジュール・ベルヌの海底2万マイルの世界を覗く』といった作品がありました。また、 『宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島決戦が、サーカス小屋で催され、オーディエンスは動物園の動物達』といった作品がありました。さらには、『ミケランジェロと葛飾北斎の競演』もありました。これらは、先程の映画作品と同様、『コラージュ(糊付け)』なのです。つまり、『もとネタ』は他のクリエーターによって創造され、横尾先生はそれを『切り貼り・糊付け』しただけなのです。

しかし面白いのは、「コラージュ」されたエキスが、「コラージュ」されることによって、新たな「世界観」が創出されていたことです。例えば、 『Y字路シリーズ』では、台風前夜の街をバックに、「怪人二十面相」・「少年探偵団」・「白く輝く街灯」という“視覚可能なエキス”が競演し、新たに『湿度・風・静寂』といった“視覚認識できない要素”を巧みに描き出していました。つまり、『もとネタ』は他のクリエーターによって創造されたのですが、それを『切り貼り・糊付け』することによって、それぞれの構成要素に『新しい息吹』を吹き込んでいるのです。『ゼロからの創造』ではありません。しかし、「糊付け」されなければ決して産まれなかった“面白さ”を「コラージュ」によって体感できるのです。これこそが、「コラージュ」の楽しみ方であると思います。

『誘拐ラプソディー』だって、『天国と地獄』と『パーフェクト・ワールド』のエキスがコラージュされることで、“男の友情”の新しい描き方が、体現されたと思うのです。

『ゼロからの創造』も価値あることですが、「糊付け」だって価値のあるクリエート活動なのです。貴方も、雑誌や広告などを切り刻み、その切り刻まれたパーツを別に用紙に「糊付け」して下さい。そこには、貴方にしか創造できない、新たな“世界観”が拡がる筈です。お試しあれ…。

本日の『酒の肴』はここまで。
如何でしたか。ご堪能頂けましたら幸いです。
では、また・・・。

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2010年4月12日月曜日

あなたが、「男の色気」の色気を感じる時はいつ?映画 『今度は愛妻家』と『NINE』に観る「男の色気」

あなたが、「男の色気」の色気を感じる時はいつ?
「男の色気」、これは映像化できるものですか?

ある女性が仰いました。「 “いい男”が、突然、泥沼に落ち込み、シドロモドロになってもがき喘ぎ苦しむ姿のなかに、私は、“男の色気”を感じる。」と。

考えてみて下さい。確かに、“いい男”が悶え苦しむ姿には、「男の色気」があるのかもしれません。出来る男が、順調に出世し、順調に幸福の道を歩み、順調に家庭を築き……、などという姿には、「色気」など全く感じませんね。泥沼の中でもがき苦しむ時、それは確かに「色気」を放つ瞬間なのかもしれません。実は、小生、昨今、この『男の色気についての考察』を実証するような映画作品に出会いました。

その2つの作品とは、洋画の『NINE』と、邦画の『今度は愛妻家』です。

まず、ロブ・マーシャル監督の『NINE』です。

この作品は、フェデリコ・フェリーニによる自伝的映画『8 1/2』をミュージカル化し、トニー賞を受賞した同名ブロードウェイ・ミュージカルを映画化した作品です。『8 1/2』に半歩進んだ解釈と音楽とダンスを加えた舞台作品『NINE』の映画化です。

ストーリーは、以下のようになっています。

天才映画監督グイド・コンティーニ(ダニエル・デイ=ルイス演ず)は、イタリア・ローマにある映画スタジオ、チネチッタで、新作「イタリア」の制作進行に行き詰まり、頭を抱えている。撮影開始も間近なのに、未だ脚本は白紙のままだ。そんななか、親友のスタッフ・リリーの協力で海沿いのホテルで休暇をとることにした。そこに妻ルイザを呼び寄せ苦しみを癒して貰おうとした彼は、突然押しかけてきた愛人カルラの誘惑に困惑する。

どうしても創作が出来ない、そこでモガキ喘ぐグイド、彼は、苦しみの果てに自分の弱さを抱きとめてくれる女達の妄想へと逃げ込んでしまう。自分を抱きとめてくれると彼が考えたのは、女優であった妻、可愛い愛人、自分の作品に欠かせない美しき大女優、少年の自分を「男」に目覚めされた娼婦、甘えさせてくれたママ、……。しかし、妄想の中で彼女達に甘え、苦しみから解放されても、現実には彼女達はグイドのもとを去っていく。

彼が拒んだがゆえのカルラの自殺未遂から解放されながらも、夫の猟色趣味と仕事一徹ぶりに愛想を尽かし、グイドのもとを去ったルイザのために、遂にグイドは「イタリア」撮影を中止してしまう。だが二年後、抜け殻のようになったグイドをリリーは新作撮影へと誘う。そして・・・・。

この作品の中で、天才映画監督グイド・コンティーニを演ずるダニエル・デイ=ルイスは、悶える「男の色気」を実に魅力的に発散する。グイドを愛さずにはいられない女達に囲まれながら、愛を選べない彼は、やがて彼女達から拒絶される。苦しむグイドだが、そこには「男の色気」が充満しているのです。

そして、「悶える男の色気」を描いたもう一つの作品は、行定勲監督の作品『今度は愛妻家』です。そして、件の「男の色気」を演ずるのは、豊川悦司さんです。

この作品、豊川悦司さんと薬師丸ひろ子さんとが演ずる「凸凹夫婦」のやり取りに、最初のうちは、オーディエンスはクスクス笑うのですが、次第に場内がシ~ンとなり、最後はすすり泣く音が聞こえてくるのですよ。これ、本当ですよ。何も、オーディエンスは、薬師丸ひろ子さん演じる「妻」が亡くなるから、すすり泣くのではないのです。

ストーリーは、以下の通りです。

人物を撮らせたら右に出るものはいない実力有名カメラマンの夫と、夫に尽くす癒し系の妻・・・、ふたりは擦れ違う。言葉も、望みも交わらない。

献身的な妻に、夫は甘える。駄々子みたいに、好き勝手に振る舞い、妻の気持など全く無視。そんななか、子どもがほしい妻は、夫を無理やり沖縄旅行へ連れ出し、“子作り”を試みる。しかし、喧嘩こそ起こらないが、やはり夫は妻の気持を全く省みない。結局、“子作り”は成功せず。

そんななか、東京へ戻る前に、
「夫に自分の写真を撮って・・」と妻、
「カメラ無い」と夫、
「内緒で持ってきてあるの」と妻、
気乗りしないが、渋々カメラを手にする夫、そしてシャッターに手をかけると、「あっ、結婚指輪、ホテルに忘れて来ちゃった!」と妻。ホテルへ戻る妻、しかし、この時不幸が・・・・・、ホテルへ駆け戻る妻は途中交通事故に、そして「死」…。

さて、ここから自信に満ち満ちていた夫は、妻を失い、嘆き悲しみ、仕事も手に就かず、奈落の底へ・・・、と思うのですが、そのようにはストーリーは展開しません。

仕事が手に就かなくなるのは、予想通りなのですが、相変わらず夫は自信に満ち、浮気を繰り返し、GOING MY WAYの生活。彼の世話は、亡くなった妻のお父さん。これがオカマ。そして、弟子。弟子の彼は、学生時代に賞を総なめにした有望で、心優しく彼に献身するカメラマン。

なぜ、彼(豊川さん演ずるカメラマン)は、妻を失って平気であるのか?

それは、妻が幽霊(但し、夫以外は見ることができない)となって、夫の前に出現する為。そして、夫の相手をしてくれる為。幽霊でも、会話も出来る。相変わらず、夫は妻に、甘えられる。

しかし、献身的な幽霊・妻も、遂に堪忍袋の緒が切れる。夫の前から、姿を消す。「死」を迎えても、夫からは姿を消すことが無かった妻が、今後は本当に姿を消す。 

⇒ すいぶんと熱弁しましたが、ここまでは物語の3分の1です。

あとの3分の2は、妻が姿を消してからの、夫のオタオタ振り、混乱振り、不安な様子を描きます。

もちろん、不安と寂しさに駆られ、献身的に支えてくれている、(死んだ妻の)オカマのお父さんや弟子ともギクシャクしだします。待てど暮らせど、幽霊妻は戻ってこない。そして、妻の一周忌を迎えて、いよいよ(死んだ妻の)オカマのお父さんや弟子と、喧嘩に・・・・・。ここで、幽霊妻が最後の別れにもう一度,夫の前に姿を現す。そして、 この後には、感動が・・・・・。

やはりここでも、豊川さん演ずる「夫」からは、「悶える男の色気」が発散されます。不思議なものです。自信に満ち満ちているときこそ「カッコいい」のに、「男の色気」は、苦悩し、悶え苦しむ姿(つまり「かっこ悪い姿」)から発散されるのです。

ダニエル・デイ=ルイスも豊川悦司も、「いい男」です。しかし、彼らが苦悩に苦しむ時、女性は彼らに「男の色気」を感じる。あぁ~、神様は何と非常な悪戯をされるのか……。

本日の『酒の肴』はここまで。

如何でしたか。ご堪能頂けましたら幸いです。

では、また・・・。

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2010年4月1日木曜日

読んでから観るのが面白い! “ネタバレ注意”

これは、一昨年に仕入れた素材と、昨今仕入れた素材を一緒に用いて創作した「酒の肴」です。
ビールを飲みながら、ゆっくりとご堪能下さい。

小生が中学生のとき、「金田一耕介シリーズ」や「人間の証明」などが映画化され、
『読んでから観るか、観てから読むか』という角川のCMが反響を呼んでいました。
まず、以下の話を読んで下さい。(友人に宛てた「メールの抜粋」なので、言い回しに失礼があります。どうぞ、温厚に受け止めてください。)

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話は変わるが、
先の土曜日に、伊坂幸太郎さんの『ゴールデンスランバー』を読み、その後、伊坂作品 『オーデュボンの祈り』・『重力ピエロ』と立て続けに読破した。
おかげで、昼と夜が逆転した生活リズムになっている。

ショットバーの若いバーテンさんに伊坂作品を紹介され、これまでも『ラッシュライフ』・『グラスポッパー』・『チルドレン』・『死神の精度』・『陽気なギャングが地球を回す』・『アヒルと鴨のコインロッカー』などを読んだ。
(補足:その後、伊坂作品は、2作品を除いて全て読破しました。)
伊坂さんはミステリー作家とされるが、
作品は非常にシュール・前衛的であり、
ストーリーは時制を縦横無尽に飛び廻る為、プロットは緻密に構成され、
台詞は印象的で、心に残るフレーズが多々登場する。
幾つかの作品は映画化もされた。
数年前から直木賞候補の常連であり、いつ受賞してもおかしくはない。
(唯、昨年はノミネートを辞退されたが…。)
東北出身(東北大卒)で、作品の舞台が仙台になることが多い。

さて、上記の『ゴールデンスランバー』であるが、
この作品、本年度、数々の賞を受賞しておるそうな。
新聞広告を見、偶々立ち寄った古本屋でこの作品を見つけたので買い求めた。

『ゴールデンスランバー』、直訳すれば、『黄金のまどろみ』とでもなろうか。
貴公もご存知の、ビートルズの『アビーロード』に同じ題名の曲が収録されている。
作品中でも、この曲がポールによって創られた背景などが紹介され、主人公の心理描写に影響を持つ。
ストーリーは、次の通りである。

仙台で、時の総理大臣が暗殺され、元宅配便業者に勤めていた若者(青柳)が、この事件の犯人に仕立て上げられる。
もちろん、この若者は事件には一切関わっていない。つまり、『偽の目撃証言』や『偽造された防犯ビデオ映像』などによって、ひとりの若者が犯人にでっち上げられるのである。
若者は警察の手から逃げる、逃げる。そして、また逃げる。

この逃亡の2日間+半日を描いた作品である。
結果は、様々な人々の助けにより、最期には若者は整形手術をほどこし、逃亡成功となる。
その後、事件は人々から忘れられるのだが、誰も若者を犯人だとおもうにものは居らず、真の犯人は、当時の副総理とか、政界の黒幕とか、政敵とか様々な憶測が飛び交う。
また、この事件逮捕に関わった警察官・事件の目撃者・事件捜査協力者などは、その後、次々と事故死に会う。
ただ、あくまで作品の中心は、『逃亡する2日間+半日』の様相である。

若者の逃亡を助けるのは、音信不通であったかつての友人や、殺人逃亡犯や、かつての職場の先輩や、偶然出会った泥棒のおっちゃんなどなどである。
このあたりのストーリー構成は、本当に緻密である。また、伏線も巧みに描かれている。
また、若者が犯人に仕立てられる過程は、事件より数年前より開始されるのだが、この辺りのプロットの組み方も憎い!
悶々としていた小生だが、この作品は一気に読破した。

貴公もお気づきだと思うが、この作品は、『ケネディ大統領暗殺事件』を下敷きにしている。
結局、『現在、オズワルドを犯人と思う人は、あまりいないのではないか』、ということである。
さらに、ビートルズがバラバラになった時、どうしてポールが『子守唄』のような『ゴールデンスランバー』という曲を創り、最期のアルバム(収録が最期と言う意味)にこの曲を収録したのか。
ポールは何をこの曲に込めたのか、ということも、この作品の主題と関連してくる。

若きクリエーター・伊坂幸太郎、なかなかやるものである。
久々に堪能した。

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上記は、小生が友人に、一昨年に送ったメールです。
さて、この伊坂幸太郎著・『ゴールデンスランバー』(黄金のまどろみ)が、現在、映画になって劇場公開されています。
小生もさっそく、映画版 『ゴールデンスランバー』を鑑賞しました。

ここから、本日の「酒の肴」は、この映画版『ゴールデンスランバー』について語ることになります。
さて、映画版は、基本的には小説版に忠実にストーリー構成がなされています。
映画版では、総理大臣暗殺後の政界の様相には殆ど触れていない点が、小説版と異なるところです。
映画版は、あくまでも、犯人に仕立て上げられた元宅配便業者の若者(青柳)が逃走をする様を中心に展開されています。
逃走が、(警察やマスコミとの)闘争になっていくのですが、
若者を助けるのが、音信不通であった大学時代の2名の親友と、殺人逃亡犯や、宅配便勤務時の職場の先輩や、数ヶ月前に助けたアイドル歌手や、泥棒のおっちゃんです。
若者は、彼らに助けられ、励まされて、逃走を、(自分を暗殺犯に仕立てようとする警察との)闘争に昇華し、さらに逃走へ戻るということになる。

映画版では、
逃走中に、嘗ての大学時代の思い出がコラージュされ、
闘争中に、逃走している若者を応援する人々の“暖かい思い”が、オーディエンスの胸の中に入り込み、
最後は、オーディエンスも“若者”(彼の名は青柳)と一緒に、意識の中で逃走を開始してしまうのであります。
映画版は、音楽・映像によって、オーディエンスも主人公の青柳君に、容易に同化されてしまうのです。

まぁ~、「読んでから観る」と、
①あの場面は、どのような映像になるのだろうか。
②あの主人公は、一体、どんな声を発するのであろうか。
③(地下水道を巧みに利用して逃走するのですが)、あの地下水道はどのように映像化されるのか。
④総理大臣爆破シーンは、どのような映像になるのか。
⑤ビートルズの「ゴールデンスランバー」は、映画の中でどのように使われるのか。
等等、視聴前からワクワクしてしまいますなぁ。

伊坂さんは、時々、登場人物に哲学を語らせるが、映画ではこの点どうするのか?
なども気になっていましたなぁ。
単に、「大脱走」のスリルとサスペンスに留まらず、
何故、本当は仲が悪くなっていた、ビートルズの4人が、アビーロード、そして『ゴールデンスランバー』を創り上げたのか…、
何故、花火はパソコンで打ち上げるのか・・・、
何故、オズワルドはケネディ暗殺の犯人に仕立て上げられたのか…、
など興味深いテーマも一緒に語られます。

小生、非常に堪能させて頂きました。
まぁ~、ブックオフで原作¥800、映画はチケット屋のディスカウントで¥1200、合計¥2000の投資でした。
それにしては、楽しめたなぁ~。

まぁ~、「読んでから観る」のも、面白いですよ。
おっと、少々、長くなってしまいました。
本日の「酒の肴」は、ここまでです。
ご堪能頂けましたか。では、また。

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