2010年4月14日水曜日

『コラージュ(糊付け)』の楽しみ方。

小生、昨日・金曜日に映画館へ行った。小生、明日・日曜日にも映画館へ行くでしょう。小生、「映画館」という空間に身を置くことが好きなのです。この点は、別の機会にお話致しましょう。

さて、昨日は、邦画『誘拐ラプソディー』という作品を鑑賞しました。
ストーリーは、至って簡単です。

前科者青年・伊達秀吉は小さな工務店に勤務するも、借金を重ね、どうにもこうにもならなくなって勤務先の工務店を飛び出す。桜の咲く中、自殺を試みるが、それも叶わない。そんな時、偶然、家出少年・伝助と出会う。家出少年の割には、伝助少年の身なりは「お坊ちゃま」スタイルであった。カネに困っていた秀吉は、服役中伝授された「誘拐犯の極意」を思い出す。そして、ついついの出来心から伝助少年を誘拐する。早速、秀吉は伝助少年から携帯電話を奪い、母親に5千万円の身代金を要求する。そして計画通り、秀吉は5千万円を手にする。

ところが、この伝助少年、実は、暴力団の会長のご子息であった。カネを手にした秀吉は、当然、警察よりも始末の悪い暴力団から追われる身となる。家出した伝助少年と共に、追っ手から逃走する秀吉。さらに警察もこの誘拐事件を知ることになり、秀吉は、暴力団と警察から追われる身となる。結局、秀吉は捕まるのだが、逃走中に秀吉は、自身の不遇の反動もあって、伝助に暖かな愛情を注ぐようになる。そして、秀吉と伝助の間には、親子の様な絆が芽生えた。

この作品は、明らかに「コラージュ」である、と小生は思います。上記の前段は、黒澤監督の『天国と地獄』。後段は、クリント・イーストウッド監督/ケビンコスナー主演の『パーフェクト・ワールド』。さらに細部には、その他の作品のエキスが散りばめられています。

では、この『誘拐ラプソディー』、価値の無い作品なのか。小生は、決してその様には考えません。「コラージュ」には、「コラージュ」の面白さがあると思います。

話は、少し逸れますが、数年前、世田谷美術館で、『横尾忠則展』が開催されていました。この展覧会で小生は、横尾先生の得意とする『コラージュ』の醍醐味に酔いしれたのです。

例えば、展示作品の中に『(江戸川乱歩さんの)少年探偵団が、ジュール・ベルヌの海底2万マイルの世界を覗く』といった作品がありました。また、 『宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島決戦が、サーカス小屋で催され、オーディエンスは動物園の動物達』といった作品がありました。さらには、『ミケランジェロと葛飾北斎の競演』もありました。これらは、先程の映画作品と同様、『コラージュ(糊付け)』なのです。つまり、『もとネタ』は他のクリエーターによって創造され、横尾先生はそれを『切り貼り・糊付け』しただけなのです。

しかし面白いのは、「コラージュ」されたエキスが、「コラージュ」されることによって、新たな「世界観」が創出されていたことです。例えば、 『Y字路シリーズ』では、台風前夜の街をバックに、「怪人二十面相」・「少年探偵団」・「白く輝く街灯」という“視覚可能なエキス”が競演し、新たに『湿度・風・静寂』といった“視覚認識できない要素”を巧みに描き出していました。つまり、『もとネタ』は他のクリエーターによって創造されたのですが、それを『切り貼り・糊付け』することによって、それぞれの構成要素に『新しい息吹』を吹き込んでいるのです。『ゼロからの創造』ではありません。しかし、「糊付け」されなければ決して産まれなかった“面白さ”を「コラージュ」によって体感できるのです。これこそが、「コラージュ」の楽しみ方であると思います。

『誘拐ラプソディー』だって、『天国と地獄』と『パーフェクト・ワールド』のエキスがコラージュされることで、“男の友情”の新しい描き方が、体現されたと思うのです。

『ゼロからの創造』も価値あることですが、「糊付け」だって価値のあるクリエート活動なのです。貴方も、雑誌や広告などを切り刻み、その切り刻まれたパーツを別に用紙に「糊付け」して下さい。そこには、貴方にしか創造できない、新たな“世界観”が拡がる筈です。お試しあれ…。

本日の『酒の肴』はここまで。
如何でしたか。ご堪能頂けましたら幸いです。
では、また・・・。

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