2010年5月31日月曜日

親子の和解について。 (映画 『ローラーガールズ・ダイアリー』を観て考えたこと。)

 本日の「酒の肴」、熱燗でも飲みながら、じっくりご堪能下さい。

ヒトは、一度は必ず自分の親に対して反発するものなのかもしれない。しかし、自分が親になってみると、子供から反発されることは決して肯定できることではない筈。親は、愛している子供が心配だから、自分のルールで子供を守ろうとする。親は、子供に期待しているから、自分の価値観を子供に伝えようとする。

先週、劇場公開となった映画・『ローラーガールズ・ダイアリー』に登場する主人公・ブリス(女子高生)の母親も、娘のブリスに期待を寄せる。保守的なこの母親は、美人コンテストで優勝したら将来きっと幸せをつかめると確信し、ブリスにコンテストの参加を強いる。さらにこの母親、少女の時代には、自らコンテストへ参加し優勝を目指していた。しかし、親のバックアップが無かったために自分は優勝できなかった、との思いから、娘のブリスと妹を完璧にバックアップする。だが、この母親の思いに、ブリスは飽き飽きしていた。文学少女であるブリスは、何らかの変革を体現したかった。ある時、髪を染めて、美人コンテストに臨んでみようと思い立ち、実行するが、これが大失敗に終わる。保守的な価値観で評価される美人コンテストに参加させられることは苦痛以外の何物でもなかった。

そんな時、ブリスは、ローラー・ゲームに出会う。そして、ローラー・ゲームに完全に魅了される。さらに勢いあまって、ルールも知らないのに、親に内緒で年齢を偽って新人発掘トライアルに参加する。ブリスは、ずば抜けたスピード感があり、『ハール・スカウツ』に入団決定となる。

ここからブリスは、自分を支配していた母親と母親の持つ価値観から決別する。選手として才能を開花させ、チームメイトたちと友情を育み、バンドマンの彼氏もできる。ブリスは、自分の居場所・自分の価値観をみつけたと思った。ところが、ある時、ブリスの活躍を母親は知ることになる。父親は、妻の考え方に多少の疑問をもつものの、妻との衝突は避けたいので、妻の価値観を肯定する。当然ブリスは、母親と衝突し、遂には家を飛び出してしまう。しかし、チームに本当の年齢がバレ(17歳を22歳と偽って登録していた。)、応援してくれていた友人とは喧嘩になり、彼氏を頼るも、ツアー旅行中の彼氏とは連絡も出来ない状態。行き場を失ったブリスは、仕方なく、年上のチームメイトの世話になることに…。

ブリスが世話になったチームメイトは子持ちであった。そのチームメイトに、ブリスは、「母は私に自分の価値観を押し付けてきた。私はそこから抜け出たいのだ。」と訴える。そんなブリスに、このチームメイトは、「貴方は母親を攻撃しているだけではいけない。母親の視点からも物事を考えなければいけない。そして、あなたを心配する母親が存在するだけでも、あなたは幸せである。」と訴える。自分も一児のママであるこのチームメイトは、ブリスに母親と和解することを諭す。

ブリスが母親と和解するシーンは、感動的である。パート・ワークから戻った母親は、家出したブリスが家へ戻ってきて、キッチンの床に座り込み何かを食べているのを発見する。母親は無言で、普段は嗜まない煙草に火をつけ、黙ってキッチンの床に座り込み、娘に自分の気持を話し始める。「(美人コンテストの件は)自分でも行き過ぎていることは自覚している。しかし、自分は優勝したかったのに、親のバックアップが無かったので、優勝できなかった。だから、私は貴方を必死でバックアップした。」と・・・。母親の言葉を聴いたブリスは、多少、母親の気持を理解しようと努力し始める。これを契機に、母親・父親はそれぞれブリスと向き合おう、ブリスも母親と向き合おう、と変化する。しかし、未だ、「向き合おうと努力し始める。」段階で映画は「幕」となります。

 まず、「~を行うことを始める。」という瞬間は、非常に美しいものです。映画だからこそ、こうした「変化を始める瞬間」を捉えることができるのです。この作品は、まさに「家族が変化を始める瞬間」を見事に作品中に納めています。家族が、お互いの気持を完璧に理解する、などというのは夢のまた夢。でも、多少でも自分以外の家族の気持に目を向けだしたこと、が「美しい」と思えてくるのです。また、「自分の居場所・自分の価値観を見つけたブリス」を両親が肯定し始める瞬間が見事に描かれています。

 親子の和解、フィクションではありますが、誰もが切望している(または、切望していた)ことだと思います。だから、ブリスや母親の気持に共感でき、オーディエンスは「判るよ、ブリス。判るよ、お母さん。貴方の気持、本当によく判るよ。」と思わず叫びたくなってしまうのです。

 誰にでも、「親との和解を感じた一瞬」というものはあると思います。そんな瞬間を映像に納められていたら素敵ですね。「完全に理解し合う」ということはなかなか難しいですが、少なくとも、「親」と「子」がお互いの気持を理解しようとし始めた、ということに意義があるのだと思います。

本日は、ここまでです。
如何でしたか。ご堪能頂けましたら幸いです。

2010年5月18日火曜日

拝啓、アル・パチーノ様 (映画 『ボーダー (Righteous Kill)』を観て…)若い「共演者達」に伝えたいこと。そして、“プロ意識”・・・。

拝啓、アル・パチーノ様。

貴方は、現代映画界の最高の演技派俳優であるロバート・デ・ニーロと、様々な焦点から比較対象にされます。しかし貴方は、役作りの面において、外見から徹底的に役に対してアプローチするロバート・デ・ニーロのようなスタイルと、シナリオから役を追究し、特別なアプローチを避けるアンソニー・ホプキンスのような両極にあるスタイルを持ち合わせている、と言われております。一説によれば、貴方は、シナリオの1場面・1場面に対し、事前にそれぞれ数十パターンで演技できるように準備されるそうですね。物凄い“プロ意識”ですね。これなら監督も非常に創作活動が容易に進行するでしょう。「じゃ~、『場面A』行くよぉ~。少し楽しそうに演技してみて。・・・あっ、もう少し暗く演技できる。・・・ちょっと後半は明るく・・・。」などといった要望にも、貴方なら次々とパターン調整出来る訳ですよね。俳優が、「楽しそうに演技する『場面A』」を創作するのだって大変なことでしょう。それなのに、貴方は、常に『場面A』に対して数十パターン、『場面B』に対しても数十パターン……、と準備する訳です。“プロ意識”のレベルが非常に高いのです。小生、このエピソードを知ったとき、本当に貴方の素晴らしさを理解しました。

さて、世界中で現代最高の俳優と称えられる貴方とロバート・デ・ニーロ、おふたり合わせてアカデミー賞ノミネートは実に14回です。しかし傑出したクオリティを誇る数々の出演作品の中で、その名を並べたのはわずか2本です。そのうち、映画史に残る名作『ゴッドファーザーPARTII』では共演シーンが一つもなく、張り詰めた男のドラマで観る者を圧倒した『ヒート』でもほんの数分のみでありました。『ヒート』での共演から12年、演技力と存在感にさらに深みと凄みを増したあなた方2人の“本物の共演”が、2008年、作品『ボーダー (Righteous Kill)』で実現した訳です。

唯、この作品、日本において上演されたのは、つい最近のことなのです。しかも、都内であれば、僅か2つのスクリーンでの上映です。貴方を尊敬する小生からすれば、なぜもっと早く、もっと多くのスクリーンでこの作品が上映されないのか不思議であります。先週の日曜日に、小生、ようやくこの作品・『ボーダー』を劇場鑑賞しました。

監督は『アンカーウーマン』『北京のふたり』などの監督ジョン・アヴネット。ドラッグ・ディーラーのスパイダーには、ヒップ・ホップのスーパースター、50セントことカーティス・ジャクソン。仕事は完璧だが、ロバート・デ・ニーロが演ずるタークとの恋愛関係に問題を抱えた科学捜査官カレンには、『ナイト ミュージアム』のカーラ・グギーノ。普段からタークとそりが合わず、彼が真犯人だと疑う後輩の刑事2人には、『ハプニング』のジョン・レグイザモと、『シックス・センス』のドニー・ウォールバーグ。タークとルースターの上司には、舞台でも高く評価されているベテラン俳優、『ロミオ+ジュリエット』のブライアン・デネヒー。実力派キャストが集結した素敵な作品でした。

 ロバート・デ・ニーロと貴方が、ニューヨーク市警で20年以上コンビを組むタークとルースターを演じられます。二人は固い絆で結ばれていたという設定です。ある日、一度は逮捕されながら証拠不十分で社会に放たれた犯罪者を標的にした連続殺人事件が発生。その全ての証拠がタークの犯行を示していた……。しかし、本当の犯人は・・・?

 サスペンス作品として、ストーリーに対する評価はそれほど高くないのかもしれませんが、貴方とロバート・デ・ニーロの演技には、小生、魅せられました。今回、お二人は、性格が全く異なりながらも、固い絆で結ばれているという設定ですので、例えば、犯罪者を二人で協力して取り調べる場面などでは、お二人の味わい深い演技の共演が体現されていました。共演だからこそ、二人の間に生まれるテンション(緊張感)が「日常を共にするモノ達の絆」という概念を、魅力的に視覚化しています。嘗ての、ポールニューマンとロバートレッドフォードのコンビ、ダスティン・フォフマンとトム・クルーズのコンビ、などと肩を並べる素敵な共演だったと思います。

ところで、貴方・Alfredo James “Al” Pacinoは、 1940年4月25日 生まれですね。と、いうことは、今年70歳ですね。いゃぁ~、2年前にアメリカ公開されたこの作中の貴方、とてもとても70歳には見えません。

貴方は、シチリア移民の子として生まれるが、2歳の頃に両親が離婚し、少年時代は非常に貧しく不憫な生活を送った、と伺っております。若い頃はニューヨーク市内で自転車便やビルの清掃稼業、映画館のアルバイトなど様々な職業を渡り歩いていたそうですね。この頃に後々名コンビとして知られるジョン・カザールと親交を結んだとか・・・。26歳からリー・ストラスバーグ主宰のアクターズ・スタジオで演技を学んだが、オーディションに行くためのバス代もないほど貧しかった時もあったというのは本当ですか?しかし次第に、貴方は舞台で活躍するようになる。

映画スターとしては比較的小柄(167cm)というハンディキャップを抱えながらも、画面を所狭しと駆け回り、見る者を圧倒するエネルギッシュで強烈な演技と、悲壮感や哀愁の漂う演技という、両極端のスタイルを併せ持っているのが貴方の特徴かもしれません。それぞれのスタイルを象徴する作品として、前者は『スカーフェイス』、『セント・オブ・ウーマン/夢の香り』、『ヒート』、後者は『ゴッドファーザー』、『フェイク』、『カリートの道』というところですか。貴方が、あるインタビューで語ったところによると、『セルピコ』は、モデルとなった実在の人物と3週間一緒に生活を共にしたり、『狼たちの午後』では、逆に脚本を徹底研究し、モデルとなった実在の人物とは一切面会せず、独自に役を作りあげたそうですね。ここでも、貴方の“プロ意識”には敬服致します。

最後になりますが、小生、あなたが仰られていた以下のメッセージ、印象に残っております。

貴方曰く、「若い俳優さんが、私と共演すると言うと、『大変緊張しました。・・・』なとど言われる。しかし、これだけは覚えておいて頂きたい。私が、若い俳優さんと共演する時には私だって緊張していると言うことを・・・。」。これですよ、これ。これこそが、自己顕示欲を捨てた本当の “プロ意識”なのですよ!

 Alfredo James “Al” Pacino様、これからも私達に“プロ意識”、教えて下さい。そして、ロバート・デ・ニーロとの共演、もし良かったら、もう一度見せて下さい。では、またスクリーンでお会いしましょう。

2010年5月9日日曜日

拝啓、山田洋次様 (映画 『おとうと』そして『プレシャス』を観て考えたこと。)「不幸」を鑑賞するオーディエンスの視点について。

拝啓、山田洋次様

本年・1月30日、劇場公開初日、早速、監督の最新作品「おとうと」拝見させて頂きました。上映終了後、館内を眺めますと、小生も含め、オーディエンスは一様に涙を流しておりました。さずが、山田監督です。そして、吉永様です。

まず、キャスティングが良い。「鶴瓶」さんを主役にしたキャスティングは、流石です。また、蒼井さん、加瀬さんも見事な演技でした。照明や美術なども見事でした。吉永さん演ずる、天使の様なお姉様が、この世に実在するのかは甚だ疑問ですが、鶴瓶さん演ずる「おとうと」に、「俺はアホや、確かにアホや、けどなぁ、お姉ちゃん。お姉ちゃんに、俺みたいな出来損ないの気持なんて判るかい!」と言わせたのは見事です。そして、散々お姉ちゃんに迷惑をかけた「おとうと」の死を看取る吉永さんの姿には、小生、思わず涙が出ました。

監督は、以前、NHKのインタビュー番組で仰っておられました。
「私は若い頃、日本映画など、全く興味がなかった。例えば、小津監督の作品。あれなどは、『所詮、中産階級を描いた物語でしょ。中産階級の娘が嫁に行く、行かない・・・・、描かれているのはそんなことでしょう。』と思っておりました。(略)当時はイタリア映画に魅せられましたねぇ。当時のイタリア映画は本当に良かった。庶民が描かれていた・・・・(略)」⇒ 〈注)もちろん山田監督は、今では、小津監督を大変評価されておられると伺っておりますが…。

今回の作品は、監督が愛したイタリア映画の様でありました。地道に生き、そのなかで幸せや絆を創り上げる「庶民家族の姿」が本当に美しく素敵に描かれておりました。何度も申しますが、流石、山田監督です。この作品は、かなりの興行成績を叩き出すことと思います。そして、エンドロールで、「この作品を市川昆監督に捧げる。」とありましたのも、よく判ります。本当に、素敵な作品でした。「聴衆を感動させる公式」を知り尽くした山田監督ならではの作品です。

ところでです。若輩者の小生が、「なにを生意気な!」と仰られるかもしれません。しかし、そこを、あえて申します。監督と吉永様は、既に「かあべぇ」を創られたではありませんか。未だ、足りないものがありましたか?もう、監督が「聴衆を感動させる公式」を知り尽しておられることは良く判りました。だから「涙の感動」はもう充分ではないのですか。そして、渥美清さんが「家族に迷惑ばかりかける『お兄ちゃん』なら、今回の鶴瓶さんは、「家族に迷惑ばかりかける『おとうと』ですか。しっかりものの妹・倍賞さんが、今回は、しっかりものの姉・吉永さんですか。

監督、次回は新しい「方向性」を期待します。何も、北野監督や松本監督や板尾監督の様にとは申しません。また、怪獣映画・西部劇・ミュージカルなどを製作されることを期待することもありません。しかし、新しい「何か」を期待します。例えば、主人公が自殺してしまうとか・・・。天使の「母」や「姉」や「妹」はもう充分です。まぁ~、寅さんシリーズ無き現在、松竹が、新たな「涙の感動作品の創作」を監督に強請ることはよく理解します。でも、監督、次回は是非、新たな作品企画を期待しております。

ところで山田監督、監督にお伺いしたいことがひとつあります。それは、「不幸」を鑑賞するオーディエンスの視点、ということです。
具体例を取上げて、お話しましょう。小生、先日、映画 『プレシャス』という素敵な作品を鑑賞しました。映画を鑑賞後、すぐに原作も拝読しました。この作品の内容をご紹介しましょう。

名前はプレシャス、ハーレムに生まれ育ち、極度の肥満体で、12歳で母親になり17歳で2児のママ、しかも「彼女のふたりの子どもの父親」=「彼女の実の父親」という近親相姦、そして現在はその父親は行方をくらまし、同居する母親からは毎日暴力と「お前は馬鹿」と罵声を浴びせられ、さらにはエイズに感染していることが発覚・・・・。こうした境遇のなかで、友人や恩師との出会うことで、主人公・プレシャスは励まされ、希望を見出して行こうとする…。

さて、山田監督の作品『おとうと』や、上記の『プレシャス』、いずれも不幸な主人公に、オーディエンスは作品鑑賞の中で主人公に感情移入すると思うのです。しかし、このときのオーディエンスの気持をもっと分析します。すると、「あっ、違っている。兎に角、私とは違っている。主人公・『おとうと』や『プレシャス』の置かれている境遇は私とは違っている。だから、彼や彼女は可愛そうだけれど、私は彼や彼女のようにはならないわ。あぁ~、安心した。」といった思いが、少なからずオーディエンスの中に存在するのではないでしょうか。「不幸」ということを知りたがる真理の底には、「自分は不幸にならない。」と確信したい、という思いがあるのではないですか。映画で展開される「不幸」を鑑賞する中で、「私とは違っている。」という安心感を同時に得ようとしているのではないでしょうか?映画の場合、「“自分の生活環境”と“不幸”という概念が、こうもかけ離れたものなのか・」ということを、オーディエンスは映像を通して実感できるのです。そうだとすれば、「不幸」に涙するオーディエンスの深層心理は、実は醜いものなのですね。

山田監督は、この点、どのようにお考えになられますか?作品『おとうと』に感動し、涙したオーディエンスの深層心理を分析されてみて下さい。監督のご意見を承ることが出来ましたら幸いです。

以上、山田ファンのひとりより・・・・。