2010年7月5日月曜日

『映画の音響効果』を考える。 (映画 『ミルコの光』を観て思うこと。)

昨今は、3Dやアイマックスやドルビーサウンドなどの登場で、映画の「視聴覚効果」は素晴らしい発展を体現しています。

そこで本日の「酒の肴」は、盲目でありながらその天賦の才能を生かし、日本でもロングランヒットの記憶が新しい『輝ける青春』を手掛けるなど、イタリア映画界の第一線で活躍するサウンド・デザイナー:“音の魔術師”ミルコ・メンカッチの、フィクションよりもはるかにドラマティックな少年時代の実話に基づいて創作された映画『ミルコの光』を紹介しながら映画の「音響効果」を考えてみたいと思います。

イタリアの映画界でサウンド・デザインを担当するミルコ・メンカッチは、この分野では第一人者であります。1970年代初頭のイタリア、トスカーナ地方。10歳になるミルコは両親に深く愛される、利発で映画が大好きな少年でした。しかしある日、祖父の古い銃を過って暴発させてしまったミルコは両眼に重傷を負い、その視力はほとんど失われてしまいます。1970年代当時、イタリアでは視力に障害を持つ者は普通の学校ではなく盲学校に入らなければならないと法律できめられていました。ミルコもトスカーナの自宅からジェノバの寄宿制の学校に親から離れて学ぶことになります。しかし、当時の盲学校は、視力に障害を持つ子供達の職業訓練校と化していました。子供達の進路は運命付けられ、その路線を安全に走行できるように訓練が敢行されるわけです。

しかし、後の「音の魔術師」は、そんな御仕着せの路線に適合することはありませんでした。ミルコは心を閉ざします。そんなミルコはある日、テープレコーダーを見つけます。しかし、古い規律や体制を重んじる学校側は、ミルコからその楽しみを取りあげようとします。盲人は障害者であり、実社会でつらい失望を味わうよりは最初から幻想を抱かない方がいい、というのが自らも視力を失った校長の言い分だったのです。けれど、彼の聴力の才能にいち早く気づいたジュリオ神父は、学校に内緒でミルコに新しいテープレコーダーを渡します。

作文の時間、ミルコは点字ではなく、寄宿舎で見つけたオープンリールのテープレコーダーに雨の音や鳥の声などを録音し、それを編集して提出しますが、校長に拒絶されてしまいます。しかし担任のジュリオ神父はミルコの音に対する才能を見出し、校長に内緒でデープレコーダーを与え、ミルコの友達たちと協力してストーリーを作り、それをドラマとして仕上げていきます。

“音”との出会いに新鮮な喜びを感じるミルコ。そして、彼の優れた聴力に気づいた担任の神父が救いの手を差し伸べるのです。ミルコは、寮の管理人の娘である少女フランチェスカにも助けられ、その後も物語を録り続けます。やがて、フランチェスカが考案した物語にクラスメイトたちも興味を持ち、その遊びに参加するようになります。

 ある晩、ミルコたちは学校をこっそり抜けだして映画館に行きます。こうした体験が、閉ざされた世界に暮らす子供たちにも夢と可能性があることを気づかせていくのです。だが、新しいテープレコーダーを使っていることが校長に発覚し、ミルコは退学処分を宣告されます。それは彼にとって学ぶ機会を失うことを意味していました。

 ミルコが自分自身の戦いに立ち向かっている頃、学校の外では社会を変えるためのもっと大きな戦いが始まっていました。抗議デモが頻発し、広場は学生たちで埋め尽くされています。そんな運動家の一人に、以前ミルコとフランチェスカが知り合った、エットレという視覚障害者の青年がいました。退学処分という仕打ちを知ったエットレはある策を思いつきます。そして、待ちに待った学年末の発表会の日を迎えます。ジュリオ神父とミルコたちによる童話劇が始まるのですが…。

主人公のミルコ少年は不慮の事故で視力を失ってしまい、暗闇での生活を余儀なくされていました。それと対比するかのように、トスカーナの陽光が眩しかった。その後視力を回復し、現在イタリア映画界の第一線でサウンド・デザイナーとして活躍するミルコ・メンカッチ氏は、ひとりの理解ある教師に出会ったからこそ、“天才”がこの世に出ることが出来るまでを、“音”と“映像”で見せてくれます。

この映画を通して、いかに“音”というものが大事なことかを改めて知らせてくれます。

さて、視力を失っていたミルコは、「音」の持つ可能性を誰よりも知っていたのではないでしょうか。そして、ひとつひとつの「音」を大切にしていたように思います。

 映画によっては、「音」が溢れ返っている作品があります。戦争映画、ヤクザ映画、マフィア映画、その他、激しいサウンドでオーディエンスの気持を高揚させようとする作品は数多く存在します。そうした作品を鑑賞する時、音響という意味では、多少劇場の音響設備が貧弱でもあまり問題は無いと思います。こうした溢れるサウンドを取り入れた作品を鑑賞するときこそ、音響設備は大切だと思う方もいらっしゃると思います。しかし、本年も既に劇場で70作品を鑑賞した小生ですが、こうした「音」が溢れている作品や場面では、多少貧弱な音響設備でもオーディエンスの気持は高揚し、結構楽しめるものです。

 しかし、「音」が殆ど存在しない場面などでは、音響設備の良し悪しにオーディエンスは非常に敏感になると思います。

廊下をひとりの暗殺者が歩いている。聞こえてくるのは、暗殺者の足音だけ。と、突然、その足音が止まる。そして、ドアが開く。ずどぉ~ん!

このような場面を想像して見て下さい。こうした場面こそ、「音響効果」を想像するサウンド・デザイナーの力量が大切になってくると思います。見事なサウンドクリエイトと、最高の音響設備が、「リアル」を越えた「リアル」な音響効果を体現します。「音」が制限された作品や場面ほど、「音響効果」はその真価を問われると思います。

 小生、“音の魔術師”ミルコ・メンカッチ氏に、以下のことを御願いしたです。

嘗て松尾芭蕉がよんだ、「古池や 蛙飛び込む 水の音」という俳句を、映像と音だけで再現して頂きたい・・・。

そうです。こうした課題こそ、サウンド・デザイナーの素晴らしさを再認識できるのではないでしょうか。あぁ~、何時の日にかミルコ氏が創造された「古池や・・・」を観て聴いてみたいものです。

以上で本日の「酒の肴」は終わりです。如何でしたか・・・。それでは、また。

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