2010年5月9日日曜日

拝啓、山田洋次様 (映画 『おとうと』そして『プレシャス』を観て考えたこと。)「不幸」を鑑賞するオーディエンスの視点について。

拝啓、山田洋次様

本年・1月30日、劇場公開初日、早速、監督の最新作品「おとうと」拝見させて頂きました。上映終了後、館内を眺めますと、小生も含め、オーディエンスは一様に涙を流しておりました。さずが、山田監督です。そして、吉永様です。

まず、キャスティングが良い。「鶴瓶」さんを主役にしたキャスティングは、流石です。また、蒼井さん、加瀬さんも見事な演技でした。照明や美術なども見事でした。吉永さん演ずる、天使の様なお姉様が、この世に実在するのかは甚だ疑問ですが、鶴瓶さん演ずる「おとうと」に、「俺はアホや、確かにアホや、けどなぁ、お姉ちゃん。お姉ちゃんに、俺みたいな出来損ないの気持なんて判るかい!」と言わせたのは見事です。そして、散々お姉ちゃんに迷惑をかけた「おとうと」の死を看取る吉永さんの姿には、小生、思わず涙が出ました。

監督は、以前、NHKのインタビュー番組で仰っておられました。
「私は若い頃、日本映画など、全く興味がなかった。例えば、小津監督の作品。あれなどは、『所詮、中産階級を描いた物語でしょ。中産階級の娘が嫁に行く、行かない・・・・、描かれているのはそんなことでしょう。』と思っておりました。(略)当時はイタリア映画に魅せられましたねぇ。当時のイタリア映画は本当に良かった。庶民が描かれていた・・・・(略)」⇒ 〈注)もちろん山田監督は、今では、小津監督を大変評価されておられると伺っておりますが…。

今回の作品は、監督が愛したイタリア映画の様でありました。地道に生き、そのなかで幸せや絆を創り上げる「庶民家族の姿」が本当に美しく素敵に描かれておりました。何度も申しますが、流石、山田監督です。この作品は、かなりの興行成績を叩き出すことと思います。そして、エンドロールで、「この作品を市川昆監督に捧げる。」とありましたのも、よく判ります。本当に、素敵な作品でした。「聴衆を感動させる公式」を知り尽くした山田監督ならではの作品です。

ところでです。若輩者の小生が、「なにを生意気な!」と仰られるかもしれません。しかし、そこを、あえて申します。監督と吉永様は、既に「かあべぇ」を創られたではありませんか。未だ、足りないものがありましたか?もう、監督が「聴衆を感動させる公式」を知り尽しておられることは良く判りました。だから「涙の感動」はもう充分ではないのですか。そして、渥美清さんが「家族に迷惑ばかりかける『お兄ちゃん』なら、今回の鶴瓶さんは、「家族に迷惑ばかりかける『おとうと』ですか。しっかりものの妹・倍賞さんが、今回は、しっかりものの姉・吉永さんですか。

監督、次回は新しい「方向性」を期待します。何も、北野監督や松本監督や板尾監督の様にとは申しません。また、怪獣映画・西部劇・ミュージカルなどを製作されることを期待することもありません。しかし、新しい「何か」を期待します。例えば、主人公が自殺してしまうとか・・・。天使の「母」や「姉」や「妹」はもう充分です。まぁ~、寅さんシリーズ無き現在、松竹が、新たな「涙の感動作品の創作」を監督に強請ることはよく理解します。でも、監督、次回は是非、新たな作品企画を期待しております。

ところで山田監督、監督にお伺いしたいことがひとつあります。それは、「不幸」を鑑賞するオーディエンスの視点、ということです。
具体例を取上げて、お話しましょう。小生、先日、映画 『プレシャス』という素敵な作品を鑑賞しました。映画を鑑賞後、すぐに原作も拝読しました。この作品の内容をご紹介しましょう。

名前はプレシャス、ハーレムに生まれ育ち、極度の肥満体で、12歳で母親になり17歳で2児のママ、しかも「彼女のふたりの子どもの父親」=「彼女の実の父親」という近親相姦、そして現在はその父親は行方をくらまし、同居する母親からは毎日暴力と「お前は馬鹿」と罵声を浴びせられ、さらにはエイズに感染していることが発覚・・・・。こうした境遇のなかで、友人や恩師との出会うことで、主人公・プレシャスは励まされ、希望を見出して行こうとする…。

さて、山田監督の作品『おとうと』や、上記の『プレシャス』、いずれも不幸な主人公に、オーディエンスは作品鑑賞の中で主人公に感情移入すると思うのです。しかし、このときのオーディエンスの気持をもっと分析します。すると、「あっ、違っている。兎に角、私とは違っている。主人公・『おとうと』や『プレシャス』の置かれている境遇は私とは違っている。だから、彼や彼女は可愛そうだけれど、私は彼や彼女のようにはならないわ。あぁ~、安心した。」といった思いが、少なからずオーディエンスの中に存在するのではないでしょうか。「不幸」ということを知りたがる真理の底には、「自分は不幸にならない。」と確信したい、という思いがあるのではないですか。映画で展開される「不幸」を鑑賞する中で、「私とは違っている。」という安心感を同時に得ようとしているのではないでしょうか?映画の場合、「“自分の生活環境”と“不幸”という概念が、こうもかけ離れたものなのか・」ということを、オーディエンスは映像を通して実感できるのです。そうだとすれば、「不幸」に涙するオーディエンスの深層心理は、実は醜いものなのですね。

山田監督は、この点、どのようにお考えになられますか?作品『おとうと』に感動し、涙したオーディエンスの深層心理を分析されてみて下さい。監督のご意見を承ることが出来ましたら幸いです。

以上、山田ファンのひとりより・・・・。

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