2010年6月7日月曜日

アニー・リーボーヴィッツについて。 (映画 『レンズの向こうの人生』を観て考えたこと。)

米国のファッション誌「VOGUE」は、この夏の特集で鳩山元首相の幸夫人を取上げるそうである。そしてこの5月に一日がかりで写真撮影が敢行され、それを担ったのがアニー・リーボーヴィッツであったそうです。

アニー・リーボーヴィッツ、小生が、この写真家の名前を知ったのは、数年前、映画 『レンズの向こうの人生』を鑑賞したときのことです。この映画は、暗殺数時間前のジョンとヨーコのポートレートやデミ・ムーアの妊婦ヌードなど有名人を被写体にセンセーショナルな作品を数多く手掛けてきた世界的女流写真家アニー・リーボーヴィッツの人生を辿るドキュメンタリーです。監督は彼女の実の妹バーバラ・リーボヴィッツです。

もしできれば、ここに上記の「暗殺数時間前のジョンとヨーコのポートレート」や「デミ・ムーアの妊婦ヌード」などを掲載したいものです。ご覧になられれば、彼女の写真家としての才を体感できると思います。残念ながら、写真掲載は難しいので、インターネットなどで、まず、彼女の作品をご覧になられることをお勧め致します。

映画は、被写体になった方々や彼女自身へのインタビューなどを交え、彼女のクリエート活動の現場の様相が紹介されます。映画では、ストーンズのミックとキース、パティ・スミス、シュワルツェネッガー、ジャック・ニコルソン、ヒラリー・クリントン等がインタビュー・フッテージで登場する上に、キルスティン・ダンスト、ジェイソン・シュワルツマン、ジョージ・クルーニー、キーラ・ナイトレイ等をカメラに収める仕事風景も紹介されます。その一方、ひとりの女、母として生きる彼女の人物像に、様々なインタビューや撮影秘話を通して迫っていきます。

彼女の履歴は以下の通りです。

 アニー・リーボーヴィッツ(Annie Leibovitz、本名:Anna-Lou Leibovitz、1949年10月2日)は、アメリカ合衆国の写真家。コネチカット州ウォーターバリー出身のユダヤ系。

米国空軍に勤める父とモダン・ダンサーの母との間に生まれた彼女は、父親の仕事の関係で、全米各地で暮らしたそうです。サンフランシスコ・アート・インスティチュートで絵画を学びながらローリングストーン誌で働きました。サンフランシスコ・アート・インスティチュートで絵画を学びますが、作業研究で暮らしたイスラエルで写真を撮影したことが転機となります。学生時代はカルチェ=ブレッソンのフォトジャーナリスト的な写真とラルティーグ に影響を受け、また、家族の絆を確認する家族写真も写真家のベースになっていると自ら述べています。

イスラエルから帰国後、定期購読していたローリングストーン誌にイスラエルで撮影した反戦運動の写真を持ち込みます。その写真が編集者の目に留まり、いきなり雑誌に掲載されることになります。幸運なことにその後すぐに仕事を依頼されニューヨークでジョン・レノンの撮影を行い、なんとその写真がローリングストーン誌の表紙を飾ることになります。1970年、彼女がまだ若干20歳の時です。有名人のレノンは無名の彼女の撮影に非常に協力的だったそうです。地球上の人類はみな同じであると彼の態度から教えられ、その経験がその後の写真に深く影響していると語っています。彼女の輝かしいキャリアはこうして始まりました。

1973年にローリングストーン誌のチーフ・カメラマンとなり、1975年のROLLING STONESの全米ツアーに同行して収めたツアー・ドキュメントで一躍有名になります。唯、ストーンズのツアーに同行するなかでヤク中になって帰国し、ローリングストーン誌の先輩記者だったハンター・トンプソンとの交流のおかげで、再度ヤク中になり苦しみます。

1980年にジョン・レノンと妻オノ・ヨーコの写真を撮影。この数時間後にジョンは暗殺され、写真はローリングストーン誌のジョン・レノン追悼号の表紙となりました。この写真が表紙となったローリングストーン誌1981年1月22日号は、2005年に米雑誌編集者協会から、過去40年間に全米で発行された雑誌の中の最優秀表紙写真に選ばれています。

1983年にヴァニティ・フェア誌に移籍して、撮影対象をミュージシャンからより広いセレブリティに広げています。1984年には全米雑誌写真家協会からフォトグラファー・オブ・ザ・イヤーに選ばれています。雑誌の仕事中心ですが広告の仕事では1987年のアメリカン・エキスプレスのキャンペーン写真やギャップ、アン・クラインの仕事を行なっています。

多くのポートレート写真家はファッション写真家出身です。しかし彼女のベースはジャーナリストのルポルタージュ写真であったことが大きな特徴です。初期の写真はモノクロの35ミリカメラで写真の構図とモデルのフォームにこだわったイメージ作りを心がけます。ヘア・メイクやファッションにも全くこだわりませんでした。モデルの親密さとともにフォトジャーナリスト的にベストショットのタイミングを本能的に探りだそうというアプローチでした。しかし80年代に入ると大判カメラでより洗練されたコンセプチュアルなイメージをプロデュースして撮影するように変化していきました。

1991年にデミ・ムーアの妊婦姿のヌードが表紙を飾り、論争となります。1998年にヴォーグ誌に移籍、ファッション関連の仕事も始めます。その被写体の対象は、ミュージシャン、映画スター、政治家、舞踏ダンサー、スポーツ選手と多岐に渡り、ファッション誌にも活躍の場を広げ、世界中のセレブリティから圧倒的な支持を受けています。彼女の撮影するモデルは予想を越えた新鮮なポーズをとることで有名です。ジョン・レノンのヌードで体をよじらせてオノ・ヨーコに寄り添うイメージや泥の中のローレン・ハットン など伝説的なポートレートは数知れません。またデミ・ムーアの妊婦ヌードでも話題になりました。単にきれいなだけの平凡なポートレートに飽き飽きするセレブリティにとって豊かなアイデアを持った彼女の写真は自分の新しい面を引き出してくれる魅力あるメディアだったのです。

30年に渡ってアメリカのポピュラー・カルチャーを、雑誌を通して表現していた彼女の仕事への情熱は一向に衰えません。1999年には20世紀末に各分野で活躍する女性のポートレート撮影のプログラムに従事し、コーコラン・ギャラリー・オブ・アート(ワシントン)で写真展を開催するとともに写真集"Women"を発表しています。2006年には過去の写真家としての仕事と、プライベート・ショットを同時展示する自叙伝的写真展"A Photographer's Life: 1990-2005"をブルックリン美術館で開催しています。 彼女のオリジナル・プリントはニューヨークのジェームス・ダジンガー・ギャラリーで初めて扱われ、その後、写真オークションでも頻繁に取り引きされるようになっています。1991年にはニューヨークの国際写真センター、スミソニアン・ナショナル・ポートレートギャラリーで大規模な回顧展が開催されています。

私生活では、1989年にエッセイストのスーザン・ソンタグと出会い、スーザンの亡くなる2004年まで親密な関係にありました。3人の子供がいますが、2001年に生まれた双子は代理母の出産であります。仕事の一方で、次第に明かされる彼女の恋、同性愛者である彼女は最愛の人と過ごした日々を振り返るが、そこには悲しい結末があるのです。

 映画の中で、「何百本というバラのなかに裸婦が横たわる写真」が紹介されます。当然、撮影前に、この何百本というバラの「刺」は、スタッフ達の手によって全て取り除かれています。完成した作品のみを鑑賞するオーディエンスとして、彼女と向き合うのは良いのですが、スタッフとしてこうした偉大なクリエーターと共に活動するのは幾多の困難があるのだと思います。一枚の傑作を求め、彼女のインスプレーションは限りなく広がります。その度に、衣装、メイク、背景、照明などに対する厳しい要求がスタッフに向けられます。スタッフは大変でしょうね。インスピレーションの中で、もし「ワニ」が必要となったら、スタッフは「ワニ」を捜さねばならないし、「バラの刺」が邪魔ならば直ちに、数百本のばらの刺を取り除かねばなりません。まぁ~、偉大なクリエーターに付き従う、ということは本当に根性を出して付いて行かねばならないのです。この映画を観ると、そうしたことがよく判ります。

偉大なる写真家、アニー・リーボーヴィッツ、皆様もいつか、どこかで堪能してみて下さい。

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