2010年8月23日月曜日

スパイ映画を語る。①映画『敵こそ、我が友』 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~

 スパイ映画『007』も好いけれど、実話をもとに製作された「スパイ映画」は、アクションシーンこそありませんが、フィクションの世界とは異なる面白さを我々に提供してくれるものです。今回は、そうした実話に基づいて製作されたスパイ映画を2作品、2回に分けてご紹介しましょう。こうしたスパイ映画は「真実」であるが故に、迫り来るものを感じます。「真実」であるが故に、主人公となるスパイたちの人間味に酔いしれ、彼らに哀愁を感じるのです。そして、「世界外交陰謀の恐ろしさ」も味わうことになります。

(映画『敵こそ、我が友』 ~戦犯クラウス・バルビーの3つの人生~)

『クラウス・バルビー』という人物を知っていますか? 小生は、この人物の存在を、映画『敵こそ、我が友』を通して初めて知りました。彼は、1935年22歳でナチス・ドイツ親衛隊に所属してから、1987年フランスでの裁判で“終身刑(フランスは死刑がないので)”を宣告されるまでに、残虐で欺瞞に満ちた人生を送ります。本作品は、彼の人生を、「オーラル・バイオグラフィー」(いろんな人が彼について話すことで、その人物を浮かびあがらせる特殊な手法)の手法で描いた、ドキュメンタリー作品です。全編、彼に関わった人々のインタビュー(彼・本人のインタビューも含む)と、裁判映像で構成されています。

彼は、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州で生まれ、1925年に、父親の転勤に伴いトリーアへと移動しました。1933年には、学生の身分ながら当時ドイツで勃興してきたナチス党のために働き、1935年には親衛隊情報部に入ります。 1939年9月に第2次世界大戦が勃発し、1942年にはドイツ占領下のオランダに赴任し、その後、フィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下のフランスのディジョン、リヨンに赴任します。1945年5月の終戦までの間に、ヴィシー政権下のリヨン市の治安責任者として対独抵抗運動を鎮圧する任務に就いており、8千人以上を強制移送により死に追いやり、4千人以上の殺害に関与し、1万5千人以上のレジスタンス運動の参加者に拷間を加えた責任者とされています。しかし実際には、この数字をはるかに上回る数のレジスタンスのメンバーやユダヤ人を虐殺した責任者と考えられており、また、孤児院に収容されていた44人の子供の虐殺に対する責任者とも言われたほか、レジスタンス指導者だったジャン・ムーランを逮捕し死に追いやったとのちに供述しています。フランス人は、彼に『リヨンの虐殺者』という異名を与えたそうです。

大戦後、本来ならばすぐにでもニュルンベルク裁判などの連合軍による裁判で裁かれてもおかしくなかったのですが、アメリカ軍は、フランス政府が戦犯として追求するバルビーを、当時ヨーロッパで始まりつつあった冷戦下における対ソ及びドイツ共産党員に対する情報網の設置に役立つ人物と判断し、1947年からアメリカ陸軍情報部隊(CIC)の工作員として利用します。

やがてフランスの諜報機関は、アメリカがバルビーをかくまっているという事実を嗅ぎつけ、アメリカにバルビーの引き渡しを要求しはじめました。しかしフランス政府の度重なるバルビー引き渡し要求にもかかわらず、バルビーの利用価値を高く評価していたアメリカは引き渡しを拒否し続けます。フランス政府により高まる引き渡し要求に、アメリカはバルビーを国外に逃すことを画策し、バルビーはCICが用意した「クラウス・アルトマン(Klaus Altmann)」名義のパスポートと必要書類一式を受けとり、1950年12月に家族と共に反共産主義のバチカンの庇護のもとに南アメリカに旅立ち、ファン・ペロン政権下のアルゼンチンを経て、1951年4月23日に家族と共にボリビアのラパスに到着します。フランスに彼の素性を察知されると、アメリカは『ラットライン』(ねずみの抜け道)と呼ばれた、逃走ルートを用意しました。しかも、この策動には、バチカン右派の神父たちが深く関わっていました。彼に限らず、バチカン右派の聖職者によって、ナチス残党の多くは海を渡ったようです。

1951年、彼は偽名『クラウス・アルトマン』を使い、ボリビアに潜入します。当時のボリビアは、冷戦下においてアメリカが支援する反共的な軍事政権の支配下にあり、戦前からのドイツ系移民の影響力も強かったこともあり、チリなど周辺国に住む元ナチス党員らと連絡を取り、同時に同国の軍事政権との関係を構築していました。そうしたなか、彼は、1957年10月7日にはボリビア国籍を取得することに成功し、この後数十年間にわたり、ボリビアの軍事政権とアメリカの事実上の庇護のもとに、バルビーはドイツ系ボリビア人の「クラウス・アルトマン」として、1964年から政権を握ったレネ・バリエントス・オルトゥーニョ将軍をはじめとする、ボリビアの軍事政権の歴代指導者の治安対策アドバイザーを務めることとなります。ボリビアの軍事政権のアドバイザーとして、バルビーは同国内で活動していた共産主義組織や反政府ゲリラ組織だけでなく、労働組合などの左翼シンパと目される組織に至るまで目を光らせ、後には1967年10月に同国の軍事政権とCIAの協力の下で行われたチェ・ゲバラの身柄確保と処刑にも関与したと報じられました。また、元ナチス党員とともにナチス再興のための組織を設立したほか、イタリアの極右政党の「イタリア社会運動(MSI)」幹部で元フリーメイソンの「ロッジP2」代表のリーチオ・ジェッリとも深い関係にあった、とされます。さらにオーストリアのシュタイア・プフなどの大手軍需企業との間の武器取引会社や海運会社を設立させて大金持ちとなっただけでなく、海運会社の役員の「クラウス・アルトマン」を名乗り、自らを戦争犯罪人ということで指名手配させていたフランスにも渡航していました。

しかし1972年に、ペルーのリマ市で発生した殺人事件の被害者と容疑者に関係のあったバルビーはリマ市警に眼をつけられます。そしてこの実業家が、実はフランスの破毀院によって死刑の判決がでている戦争犯罪人であることをつきとめられます。事件後、バルビーは公然と姿を現わし、自分の正体を認め、ボリビアのテレビに出演して、ナチス親衛隊員の過去を礼讃しました。世界のマスコミが騒然となりボリビアに殺到しました。バルビーはマスコミに『回想録』を売りつけ、戦後、西ドイツの「ゲーレン機関」に関係していたことを暴露して、世界を驚かせます。またバルビーは「戦争犯罪と考えられるいかなる行為にも関わっていない」と強く主張します。

その後もバルビーは、1980年6月に政権を奪取した民主人民連合(UDP)による左派政権に対して、同年7月17日ルイス・ガルシア・メサ・テハダ将軍が起こした軍事クーデターにも関与するなど、ボリビアの軍事政権との関係を続けました。なお、ボリビアの歴代軍事政権は、フランス政府によるバルビーの引き渡しを、バルビーが「ボリビア人」であることを根拠に公然と拒否し続けました。しかしガルシア政権は、バルビーが深く関与した左翼活動家への弾圧などにより国民からの反発を受けただけでなく、コカインの生産および輸出への深い関与が証明されたことから、後見人的立場であったアメリカの支持を失い、翌年に退陣することとなりました。

1982年、ガルシアの後を継いだボリビアの軍事政権が倒れ社会主義政権にとってかわられるとともに、バルビーをフランスに引き渡す声が高まります。翌1983年に、70歳になったバルビーは、ボリビアと同じく社会主義(フランソワ・ミッテラン)政権下にあったフランスに引き渡されました。1984年からリヨンの法廷で始まった裁判は世界中の注目を浴び、裁判においてバルビーは、「自分はフランスがアルジェリアでやったのと同じことをしたにすぎない」と主張し物議をかもした他、フランス国内の右派からは、「ヴィシー政権下で叙勲を受けるなど評価を高めたミッテラン大統領の罪状から、目をそらさせるための裁判である。」との意見もありました。しかし最終的にバルビーは終身禁固刑を宣告され、直ちにフランス国内の刑務所に収監されたのです。その後1991年9月に刑務所内で病死しました。

作中の様々なインタビューを通して、スパイ小説をも凌駕する、『真実』、が明かになります。

この作品は、「現在でも、あらゆる国家・政府は得体の知れない組織や個人と関わって、外交諜略・外交成果を上げている」という事実を、我々の前に明かにします。『外交とは、何のために存在するのか』、『外交成果とは何か』ということを、改めて我々に問う作品でした。

嘗て、『リヨンの虐殺者』という異名を与えられたバルビーが、アメリカやカトリックの総本山・バチカンからその利用価値を見出されたという「歴史事実」を私達は、一体どのように評価すればよいのでしょうか。自国の価値観に敵対するものを徹底弾圧するためには、巧みなスパイ戦術に長けたバルビーは非常に有効でありました。そして、この「利用価値あり」とされた一人のスパイを、「ラットライン」やバチカンのバックアップで生き長らえさせることを可能にしたのです。

唯、何よりも、これは事実・・・、この一点に、小生は先ず圧倒されてしまうのです。いやはやなんともです。

「スパイ」を「酒の肴」に、次回、もう一つお付き合い下さい。

では、また・・・。

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