2010年7月19日月曜日

あなたは、『愛だけが欲しかった、シスタースマイル』を知っていますか・・・。 

先週の朝日新聞土曜版beの「song 歌の旅人」にて、『スール・スーリール 「ドミニク」』について掲載されていました。実は、この人物、現在公開中の映画 『シスタースマイル ドミニクの歌』の主人公であり、実在の人物なのです。あなたは、この人物のことをご存知でしたか。

彼女は、ベルギーのドミニコ会フィシェルモン修道院に入ってシスター・リュック・ガブリエルを名乗り、修道院でギターを習い始め、やがて聖ドミニコを讃えた歌『ドミニク』を作曲します。彼女が口ずさんだ「ドミニク」を聞いた、修道院のトップが、この曲をドミニク修道院のPRとして世に出すことにします。 そして、音楽の才能を認められ、他の尼僧たちに励まされて1963年にレコードを発表となります。すると、その明るいメロディと美しい歌声が評判を呼び、彼女は“シスタースマイル”の芸名でレコードデビューを果たし、またたく間に大ヒットを記録することになります。このアルバムに収められた『ドミニク』が人気急上昇し、全米のヒットチャートに入ります。ビルボードではシングル(Hot 100)・アルバムの両チャートで1位を獲得しました。

 まさに、ヒトは、「彼女は誰もがうらやむような人生を送った。」と思うのです。

しかし、彼女の人生には、

母親との確執、自分を慕う少女・アニー・ペシェル(Annie Pécher)からの逃避、ギターとの出会い、ローマ・カトリックの開放政策、「ドミニク」のヒット、不合理なレコード契約、修道院を飛び出し慕い続けてくれていたアニーのもとへ・・・・・・そして、二人での自殺。

と複雑怪奇なストーリーがあるのです。こうした彼女の「人生」を丁寧に追ったのが、現在公開中の映画 『シスタースマイル ドミニクの歌』なのです。

まず、映画について触れる前に、彼女の経歴をインターネットから引用します。

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ラ・スール・スーリール : La Sœur Sourire (1933年10月17日 -1985年3月29日 )はベルギーの歌手。ザ・シンギング・ナン(The Singing Nun)の名でも知られる。

本名、ジャンヌ=ポール・マリ・デッケルス(Jeanne-Paule Marie Deckers)。(以下、ジャニーヌ・デッケルス)

第二次世界大戦中は一家でパリに居住。ここで父はレジスタン運動に参加していた。1945年、一家はベルギーに帰国。1950年代末のベルギーは、まだまだ保守的な時代である。そうしたなかにあって、自分の人生を自分で選ぶことを願った女性、ジャニーヌ・デッケルス。サン・アンリに住んで学校に通ったが、1953年に単身パリへ留学し、美術学校に学ぶ。美術教師としての訓練を受けてブリュッセルに戻り、女子校で教壇に立った。

両親はベーカリーを営んでおり、両親は彼女に継いで欲しいと思っていたが、独立心旺盛なジャニンが選んだ道は修道院に入ることであった。その後、1959年に母親の押しつけに反発してギターを片手に修道院の門を叩く。そして、ベルギーのドミニコ会フィシェルモン修道院に入ってシスター・リュック・ガブリエルを名乗る。

修道院での厳格な生活に戸惑いながらも、この修道院でギターを習い始め、修道院の中でもギター片手にプレスリーの曲などをやり、年長の尼に怒られる。だが彼女が口ずさんだ「ドミニク」を聞いた、修道院のトップが、これはドミニク修道院のPRとして世に出すことにした。 シスターたちや院長から音楽の才能を認められたジャニーヌは、やがて聖ドミニコを讃えた歌『ドミニク』を作曲する。そして、作曲を始めたところ音楽の才能を認められ、他の尼僧たちに励まされて1963年にレコードを発表。その明るいメロディと美しい歌声が評判を呼び、彼女は“シスタースマイル”の芸名でレコードデビューを果たし、またたく間に大ヒットを記録する。このアルバムに収められた『ドミニク』が人気急上昇し、全米のヒットチャートに入る。ビルボードではシングル(Hot 100)・アルバムの両チャートで1位を獲得した。

彼女は一夜にして国際的なスターとなり、スール・スーリール(シスター・スマイル)の芸名を名乗って、1964年には『エド・サリヴァン・ショー』に出演した。だがジャニンの名前は出さず、「シスタースマイル」の名前でマスコミに出た。 1966年、彼女に関する映画『歌え!ドミニク』がデビー・レイノルズの主演で製作されたが、デッケルスはこの作品を「うそだらけ」と評して撥ねつけた。そしてジャニンは自分の名前が出ないことと、収益が全て修道院に入ったことなどで頭にきて、66年に修道院を出る。

自信に満ち溢れ、運命は己の力だけで切り開けると信じているジャニーヌは鼻もちならない少女。修道院に入っても勝手な行動を改めないなど、自ら決心して入門したのに驚くべき自覚のなさ。だが、「従順の掟」を破るほどの強い気持ちがあったからこそ名曲が生まれたのも事実。

1960年代後半は敬虔な宗教生活に入り、人前で歌うことをやめた。収入の大半は修道院に寄付していたが、1967年には音楽活動を停止。音楽的には新境地を開きつつあったが、デッケルスは徐々に忘れられた歌手になっていった。一つには、世俗的名声を軽蔑していたためでもある。1967年に出したセカンドアルバムの題名は"I Am Not a Star in Heaven"(私は天の星じゃない)だった。彼女は大変宗教的だったが、徐々にカトリック教会の保守性に批判の度を強めていき、最後には産児制限の支持者となった。1966年には、ジョン・レノンのキリスト教批判に共感していた。 1967年にはリュック・ドミニク(Luc Dominique)の名で、産児制限の賛歌『黄金のピルのために神の栄光あれ』を録音したが、商業的には惨憺たる失敗に終わった。

音楽活動を停止した後、10年来の親友アニー・ペシェル(Annie Pécher)と共にベルギーで自閉症児童のための学校を開いた。しかし1970年代後半(American Top 40の1978年7月22日の放送で報じられた)、ベルギー政府が彼女に対して5万米ドルの追徴課税をおこなうと発表した。これに対してデッケルスは、金は修道院に寄付したものであり課税の対象外となると主張したが、寄付だったことを示す領収書が存在しなかったため彼女の言い分は認められず、深刻な経済苦に見舞われることとなった。

1982年には芸能界への復帰を図って失敗している。

そして彼女はペシェルと共に睡眠薬と酒を過剰服用し、自殺した。ペシェルとの間に同性愛関係があったか否かは定かでないが、二人は共同に埋葬された。

映画ではこの二人の関係の最後を描いてないが、テロップで流れる。

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小生も、この映画を観るまでは、「シスタースマイル」のことは全く知りませんでした。この映画を観る限り、「シスタースマイル」と呼ばれた彼女は、修道女のイメージとはかけ離れた、まるで自虐区的なパンク・ロッカーの様に感じます。正しいと思った道理は曲げられない、「心の声」に従って生きるヒロイン。数々の軋轢と挫折、それでも信念を貫こうとする意志の強さは一種変人のようですらあります。束縛を嫌い、命令を拒み、短慮であるが、人を楽しませる愛きょうもある。しかし、そんな彼女も、やはり寂しかったのだと思います。

感情を純粋に放出する彼女は、あまり魅力的とは言い難い人間なのかもしれません。しかし彼女が口ずさむ親しみやすいメロディは、作品を見終わった後もしばらく耳から離れませんでした。教会は、彼女の「純真な心」を利用したのかもしれません。しかし、彼女は、「ドミニクの歌」をリリース後は、自信に満ち満ちて、全く周囲が見えなくなってしまいます。唯一の救いは、友人・ペシェルのみ。

映画は、できるだけ彼女の実像を再構築しようとする一方、彼女の態度にどんな評価も下しません。成功者としての栄光も、あとの凋落も、客観的な視点から同列に扱い、ジャニーヌという強烈な個性を浮き上がらせます。朝日新聞の記事の言葉をかりれば、「彼女は自分を丸ごと受け入れる絶対的な愛を求め続けました。だから、歌への大衆からの支持を、彼女は『絶対的な彼女に向けられた大衆からの愛』と感じた。」のでしょう。彼女にとって、「愛」とは、(他者から自分へ)与えられるべきものであって、自分が与えるべきものでなかったのかもしれません。ここに大きな「落とし穴」があったのは間違いないと思います。“レコード会社”と“教会のPR部隊”は、彼女のこうした純真な心利用し、「大衆からの彼女への愛」を巧みに演出します。しかし、それは彼女の「純粋さ」を踏み潰します。踏み潰されたら最後、彼女は破滅の道を辿ることになります。

あぁ~、ひとつの才能が、唯、一つの曲・「ドミニク」だけで閉じてしまいました。

非常に痛ましい、悲劇であります。スコッチを飲みながら、スクリーンのなかで、孤独にジンを飲んでいた彼女の姿を思い浮かべます。

小生には、栄光の道を登り始めた彼女の姿より、痛ましく崩壊していく彼女の姿の方が脳裏に焼きついています。唯、今は、絶対的な愛を求めた、孤独のヒロインに黙祷です。

2010年7月12日月曜日

『親愛なる、石ノ森先生』へ・・・。

天国の石ノ森先生へ・・・。

天国での生活は如何ですか。先生の『絵』で、天国の様子を下界の我々に教えて頂きたいものです。

先生の作品は、本当に『絵』が素晴らしい!と、思っております。数多くのクリエーター達も、「石ノ森先生の『イメージを“絵”にする能力』の素晴らしさ」を賞賛しております。「イメージを“絵”にする能力」というのは多くの感動を呼び起こします。「音」を“絵”にする、「言葉」や「概念」を“絵”にする、このような課題を先生は、見事に体現してしまいます。芥川は“地獄”を描くことを小説にかきましたが、先生には、是非,“天国”という概念を“絵”で表現頂きたいです。その“天国”の先に、希望を見出したいから・・・。

先生の“クリエーターの哲学”とは、『イメージを“絵”にする卓越した能力』が可能にした『萬画宣言』(“まんが”宣言、と読む)!(手塚先生によって確立された)“マンガ”(『漫画』でない)によって、「全てを語ろう!それは可能だ!」というのが、後年の先生の思いだったそうですね。確かに、88年ごろからは『日本の歴史』や『経済の仕組』なども「萬画」で表現しておられました。“ぶっとんだ”発想です。

また、先生は、『若手クリエーターへの伝承』ということを非常に意識されたそうですね。

『がんばれロボコン』『美少女仮面 ポアトリン』『ゼロゼロ ナイン ワン』『星の子 チョビン』といった作品は、「原作 石ノ盛章太郎」となっていても、現実は、先生はキャラクターデザインのみ手がけ、その他は若手クリエーター達の創作ですよね。そうした先生の思いを受けて、『幻魔大戦』『スカルマン』などは、「若手クリエーター達(宮崎先生も石ノ森チームで活躍しました。)が、既存の石ノ森作品に『プラスの価値』を加える方向」で、作品進化させました。ここには、素晴らしい「伝承」が感じられます。

伝承という意味では、『サイボーグ 009』と『仮面ライダー』という2作品は特筆されます。両作品とも未完です。詳細は章を改めます。

ところで、小生が一番好きな先生の作品は、『サブとイチ』です。『化粧師(“けわいし”と読む)も好きです。『サブとイチ』は、TV放送と雑誌連載が、小生が4か5歳のとき開始。TV放映をオンタイムで見ていました。コミックは、1999年に購入して全部読みました。今でも、時々コミックを押入れから取り出して読みます。

先生は、『TV放映』と『雑誌掲載』とを明確に分けて捕らえておられましたね。先生は、「TV放映を観る」という行為は子供達でもできるが、「雑誌を読む」と言う行為は少年・青年によって行われる、という認識をされていたそうですね。最近、『仮面ライダー』『キカイダー』といった作品のTV版とコミック版とを拝見する機会がありました。両作品とも、『コミック版』は、登場人物の深層心理描写が綿密に行われ、純文学作品のような内容であることを知りました。

 さて、『サイボーグ 009』について語りましょう。小生は、 1・2シリーズのTV放映とコミックを知っていました。『仮面ライダー』は『進化するヒーロー』として、『サイボーグ 009』は『変化しないヒーロー』として伝承させてほしい、というのが先生の思いだそうですね。『サイボーグ 009』・第3シリーズ終了後、先生は亡くなられました。しかし、そのなかの「2作品」が完成を見ないままになっております。

 内容は、ブラックゴースト団との戦いをおえたサイボーグ戦士たちが、『天使たちとの戦い』 『神々との戦い』を行うと言うものです。これを『完結』させてほしい、ということを先生は、生前、二人のご子息に依頼したそうですね。『完結編』のストーリーを長男(小野寺 ジョー:俳優・作家として活躍。しかし、石ノ森章太郎の長男であることは隠しておられます。)に、映像化を次男(小野寺 章:石ノ森プロダクション社長)に託されたそうですね。

 現在、『完結編』の1章から4章までが「小説 1巻」として出版されています。ここで、001から004までのことが描かれています。この作品の、『敵のブラックゴーストの正体は、人間の「悪の部分」が増殖させた細胞体』、『神々は、人間の“おろかさ”に幻滅し、人間は生存をかけて神々と戦う』という設定に興味を覚えます。こうした「イメージ」を、「映像」できる先生の「才」に敬服します。

『仮面ライダー』についても触れたいです。小生は、 1・2号ライダーの活躍をTV放映で観ただけです。
「仮面ライダー」は、「進化するヒーロー」、ですから現在もTV放映・雑誌連載されています。
歴史は、
①「1号」から「ストロンガー」までが第1期。
最後、7人のライダーが『悪の総統』と戦う、と言うストーリーです。「結局7人のライダー達が戦ってきた『悪の総統』は同一人物で、最後は宇宙へ脱出という設定です。この「第一期」に主人公を務めた俳優さん達には、基本、「高い運動神経」「バイクを操作する能力」「アクションスターとしての訓練」が求められました。当時、斜陽になった映画業界から、たくさんの若いクリエーター達が『仮面ライダー』の作成チームに加わり、再起をかけた若い意気込みが、素晴らしいパフォーマンスを体現した(最高視聴率30%)ということを、昨今知りまして感激しました。

②「スカイライダー」数本の映画作成を経て、「ブラックライダー」の誕生が、第2期。
石ノ森先生が携わった最後の「仮面ライダー」TVシリーズだそうです。ブラックライダー シリーズでは、「悪のライダー」と戦う、というコンセプトになります。『「自分の敵」は「自分』 『未完成の自分の進化』など、石ノ森作品の基本コンセプトが表現されています。キャラクターデザインセンスも抜群です。

③数本の作品作成を経て、石ノ森先生の死後、2000年から『平成ライダー シリーズ』として、第3期があります。私も、『平成ライダー シリーズ』というのは、全く知りません。唯、数本、最近鑑賞する機会がありました。そこで感じたのは、(我々が観ていた)第1期との差異です。以下、小生の差異を簡単に述べます。(Ⅰ)デジタル映像による映像。・(Ⅱ)主人公を演じる俳優は必ずしもアクションスターである必要はなくなった。俳優としての演技力を強く求められている。(例えば「仮面ライダー クウガ」の主役が、あのオダギリジョーさんだったのには驚きました。でも演技は素晴らしかったです。) ・(Ⅲ)設定コンセプトは複雑になり、1話完結でない。主人公も、『完全ヒーロー』でなく、「食事シーン」などもあるのには驚きました。そして、「仮面ライダー 龍崎」などは、13人の仮面ライダーが、最後のひとりになるまで互いに戦うというストーリーであったのには本当にビックリです。

『仮面ライダー』シリーズに関して、今日までに小生が思っていることを述べれば以下のようになります。
①『仮面ライダー』とは、コンセプトの設定・「毒」を感じるキャラクターデザイン・悩むヒーローなど、石ノ森作品の要素が終結した集大成作品だと思います。
②「進化しながら伝承される作品」としての一面を『仮面ライダー』は持っている。
③若いクリエーター達が、「活動・活躍の場」として、この『仮面ライダー』を育ててきた。

しかし、こうして改めて先生にお手紙を書き綴っておりますと、石ノ森章太郎という「クリエーター」の輝くパワーに叱咤激励されるような気持になります。「イメージを大切にする。」「伝承」「進化」、いずれもクリエーターには大切なことです。

本日、梅雨の雨を愛でながら、先生の『サブとイチ』を手にしております。何度読んでも、面白く、画面の斬新さには常に新たなる発見を見出します。

映画館では、『仮面ライダー』の新作が上映されております。さすがに、チケット売り場で、「仮面ライダー、大人・1枚」というのは恥ずかしいので、劇場公開作品は鑑賞することが困難です。劇場公開作品と言えば、古の『空飛ぶ幽霊船』などの作品は、小生、いまでもその内容を覚えております。衝撃的な作品でした。

もう、石ノ森先生の新しい作品を観ることはかないません。しかし、また、若きクリエーターが先生の「才」を継承し、新たな作品を我々に紹介して下さると思います。そんな若きクリエーターの出現を楽しみにしながら、ここに筆を置きたいと思います。

石ノ森先生、有難う御座いました。

2010年7月5日月曜日

『映画の音響効果』を考える。 (映画 『ミルコの光』を観て思うこと。)

昨今は、3Dやアイマックスやドルビーサウンドなどの登場で、映画の「視聴覚効果」は素晴らしい発展を体現しています。

そこで本日の「酒の肴」は、盲目でありながらその天賦の才能を生かし、日本でもロングランヒットの記憶が新しい『輝ける青春』を手掛けるなど、イタリア映画界の第一線で活躍するサウンド・デザイナー:“音の魔術師”ミルコ・メンカッチの、フィクションよりもはるかにドラマティックな少年時代の実話に基づいて創作された映画『ミルコの光』を紹介しながら映画の「音響効果」を考えてみたいと思います。

イタリアの映画界でサウンド・デザインを担当するミルコ・メンカッチは、この分野では第一人者であります。1970年代初頭のイタリア、トスカーナ地方。10歳になるミルコは両親に深く愛される、利発で映画が大好きな少年でした。しかしある日、祖父の古い銃を過って暴発させてしまったミルコは両眼に重傷を負い、その視力はほとんど失われてしまいます。1970年代当時、イタリアでは視力に障害を持つ者は普通の学校ではなく盲学校に入らなければならないと法律できめられていました。ミルコもトスカーナの自宅からジェノバの寄宿制の学校に親から離れて学ぶことになります。しかし、当時の盲学校は、視力に障害を持つ子供達の職業訓練校と化していました。子供達の進路は運命付けられ、その路線を安全に走行できるように訓練が敢行されるわけです。

しかし、後の「音の魔術師」は、そんな御仕着せの路線に適合することはありませんでした。ミルコは心を閉ざします。そんなミルコはある日、テープレコーダーを見つけます。しかし、古い規律や体制を重んじる学校側は、ミルコからその楽しみを取りあげようとします。盲人は障害者であり、実社会でつらい失望を味わうよりは最初から幻想を抱かない方がいい、というのが自らも視力を失った校長の言い分だったのです。けれど、彼の聴力の才能にいち早く気づいたジュリオ神父は、学校に内緒でミルコに新しいテープレコーダーを渡します。

作文の時間、ミルコは点字ではなく、寄宿舎で見つけたオープンリールのテープレコーダーに雨の音や鳥の声などを録音し、それを編集して提出しますが、校長に拒絶されてしまいます。しかし担任のジュリオ神父はミルコの音に対する才能を見出し、校長に内緒でデープレコーダーを与え、ミルコの友達たちと協力してストーリーを作り、それをドラマとして仕上げていきます。

“音”との出会いに新鮮な喜びを感じるミルコ。そして、彼の優れた聴力に気づいた担任の神父が救いの手を差し伸べるのです。ミルコは、寮の管理人の娘である少女フランチェスカにも助けられ、その後も物語を録り続けます。やがて、フランチェスカが考案した物語にクラスメイトたちも興味を持ち、その遊びに参加するようになります。

 ある晩、ミルコたちは学校をこっそり抜けだして映画館に行きます。こうした体験が、閉ざされた世界に暮らす子供たちにも夢と可能性があることを気づかせていくのです。だが、新しいテープレコーダーを使っていることが校長に発覚し、ミルコは退学処分を宣告されます。それは彼にとって学ぶ機会を失うことを意味していました。

 ミルコが自分自身の戦いに立ち向かっている頃、学校の外では社会を変えるためのもっと大きな戦いが始まっていました。抗議デモが頻発し、広場は学生たちで埋め尽くされています。そんな運動家の一人に、以前ミルコとフランチェスカが知り合った、エットレという視覚障害者の青年がいました。退学処分という仕打ちを知ったエットレはある策を思いつきます。そして、待ちに待った学年末の発表会の日を迎えます。ジュリオ神父とミルコたちによる童話劇が始まるのですが…。

主人公のミルコ少年は不慮の事故で視力を失ってしまい、暗闇での生活を余儀なくされていました。それと対比するかのように、トスカーナの陽光が眩しかった。その後視力を回復し、現在イタリア映画界の第一線でサウンド・デザイナーとして活躍するミルコ・メンカッチ氏は、ひとりの理解ある教師に出会ったからこそ、“天才”がこの世に出ることが出来るまでを、“音”と“映像”で見せてくれます。

この映画を通して、いかに“音”というものが大事なことかを改めて知らせてくれます。

さて、視力を失っていたミルコは、「音」の持つ可能性を誰よりも知っていたのではないでしょうか。そして、ひとつひとつの「音」を大切にしていたように思います。

 映画によっては、「音」が溢れ返っている作品があります。戦争映画、ヤクザ映画、マフィア映画、その他、激しいサウンドでオーディエンスの気持を高揚させようとする作品は数多く存在します。そうした作品を鑑賞する時、音響という意味では、多少劇場の音響設備が貧弱でもあまり問題は無いと思います。こうした溢れるサウンドを取り入れた作品を鑑賞するときこそ、音響設備は大切だと思う方もいらっしゃると思います。しかし、本年も既に劇場で70作品を鑑賞した小生ですが、こうした「音」が溢れている作品や場面では、多少貧弱な音響設備でもオーディエンスの気持は高揚し、結構楽しめるものです。

 しかし、「音」が殆ど存在しない場面などでは、音響設備の良し悪しにオーディエンスは非常に敏感になると思います。

廊下をひとりの暗殺者が歩いている。聞こえてくるのは、暗殺者の足音だけ。と、突然、その足音が止まる。そして、ドアが開く。ずどぉ~ん!

このような場面を想像して見て下さい。こうした場面こそ、「音響効果」を想像するサウンド・デザイナーの力量が大切になってくると思います。見事なサウンドクリエイトと、最高の音響設備が、「リアル」を越えた「リアル」な音響効果を体現します。「音」が制限された作品や場面ほど、「音響効果」はその真価を問われると思います。

 小生、“音の魔術師”ミルコ・メンカッチ氏に、以下のことを御願いしたです。

嘗て松尾芭蕉がよんだ、「古池や 蛙飛び込む 水の音」という俳句を、映像と音だけで再現して頂きたい・・・。

そうです。こうした課題こそ、サウンド・デザイナーの素晴らしさを再認識できるのではないでしょうか。あぁ~、何時の日にかミルコ氏が創造された「古池や・・・」を観て聴いてみたいものです。

以上で本日の「酒の肴」は終わりです。如何でしたか・・・。それでは、また。